雑記。松本潤舞台に思うこと
ワタクシは白夜もエデンの東も見ておりません。WSSももちろん見ておりません。ですので松本潤の舞台について云々することは不可能です。駄菓子菓子これだけは書いておきたい。白夜について。白夜のワルキューレは野田秀樹の戯曲として出版されています。すでに絶版になっていますが、古書店で入手しました。もともと、夢の遊眠社時代の作品は好きで、「空、見た子とか」「半神」なんかをNHKで見たり文庫本で読んだりしていた記憶があります。「白夜」はほんとに一見意味不明の台詞の羅列ですが、声に出して読み進めるとその韻律に不思議な力が宿ります。クライマックスからラストにかけての台詞なんて、本当にメタファー、象徴的で鳥肌が立ちます。これを松本君は一体どんな風に発したんだろう。想像するだけでざわざわと胸が湧きたつ。それだけの力のある脚本であり台詞の群れだと感じました。でも、意味不明の脈絡のない言葉遊びだらけの台詞群でもあります。アイドルとしてレギュラーのMC仕事と映画撮影とこの舞台を並行してこなさなければならなかった。その仕事密集期にこの台詞の洪水ともいえる野田脚本を松本潤にやらせようと思った意図はどこにあるのか。おそらく、当時の蜷川さんのインタビューなんかを読めばそこに書いてあるのでしょう。あいにく自分はそれを入手することはできていません。ただ、サスケという少年を演じさせるに足る何かを松本潤が持ち合わせていると蜷川さんは考えたのではないかと推察します。技量的に劣るのは火を見るより明らかです。アイドルで専業俳優ではありません。舞台経験も少ない。発声から叩きなおさなければいけない。基礎の基礎です。そこからのスタート。しかも時間的猶予は極めて少ない。それでもあえて松本潤を起用した。この野田脚本の野田台詞、凄まじい台詞の乱射舞台をやらせようとした。そこに何かを生み出せる見通しがなければそんな無謀な賭けはしなかったでしょう。そして。ワタクシが感想を漁った限りにおいては、そこに確かに生みだされ結実したものが存在した。そんな風に感じられました。その蜷川監督が、再び松本潤を起用する。その意図はどこにあるのか。今度は寺山修司。唯一の小説の初舞台化。詩人が描く、即興技法を用いた「小説」という名の音楽だという書評を見ました。それを蜷川さんはどんなふうに舞台に創造するのか。バリカンと新次の鮮烈な魂と肉体のぶつかり合いをどうやって表現するのか、そして松本くんと小出君はどんなふうにそれを演じ上げるのか。興味は尽きません。でも、新次というカリスマ性とオーラを帯びた役(らしい)に松本潤を起用した意味は必ずあるはずなのです。国民的アイドルというカテゴリーから更に一歩踏み出してレベルアップしろと。そう檄を飛ばした蜷川監督。どんな世界を監督は見せようとし(観客にも、演者にも)、松本潤はどんな世界を覗こうとしているのか、想像するだけで震えがきそうです。リベンジなんかじゃない。いや、松本潤さん自身はそう思っているところもあるのかもしれない。それは誰にもわかりません。でもこちらが勝手にリベンジだなんて決めつけるのはとても変だしオコガマシイ。と、私は思います。いち観客として面白くなかった、金返せと思うのは自由だけど、それからはみ出るのは勘違いだと思うのです。全く別の物語を、全く別の登場人物として紡いでゆくのですから。観るこちら側もまた一期一会で臨むのが礼儀なんじゃなかろうかと思います。もっと言うなら演者もまた一期一会で臨まねばならないのではないかと思います。夜中なので熱く語り過ぎてしまいました。これ、明日の朝読み返したら恥ずかしくなること必定ですね。へっ(春日風)