|
カテゴリ:おしゃべり・ミニネタ・身の回りのこと
日本寺めぐりは終盤に差し掛かりました。
最後に百尺観音とラピュタの壁へ ※「ラピュタの壁」は日本寺の管理区域ではありません 日本寺公式サイトの「境内案内」へのリンク→こちら (別タブで外部サイトが開きます) マップになっていますので、参照しながら記事をご覧になると良いでしょう。 日本寺めぐりの第1回はこちら(浜金谷駅から鋸山ロープウェーまで歩く) 2023年春…JR東日本パスで2泊3日の鉄道旅【その60】(3日目) 撮影日:2023年3月9日 西口管理所から地獄のぞきを目指して歩くと、急な階段が始まる直前、左へ分け入る道がありますすぐに道は岩壁に挟まれて細くなり、そこを抜けると… この観音様は、世界戦争戦死病没殉難者供養と交通犠牲者供養のために、昭和30年代に彫刻されたそうです。この場所自体が石切り場跡と思いますが、その中でも掘り込み跡に磨崖仏として観音様が彫られています。 高さはおよそ30mということです。 この観音様がどこにあるかというと、そう、この場所になります。 日本寺境内きっての名所「地獄のぞき」の記念写真を撮る展望台のほぼ真下にあたります。 左上の出っ張っている岩が、「地獄のぞき」。 一度ご覧に入れた写真ですが、地獄のぞきの先端まで行って、肝を冷やしながら崖下を覗き込むと見えるのが、百尺観音様にお参りする人々というわけです。 百尺観音の反対側の岩壁には、記念の落書きが彫られていました。現地で見ると、一文字一文字が大きく彫られています。 写真では「明大」はじめいくつかの学校名と思われる文字と、複数の人名(苗字)が彫られています。特に「明大」(おそらく明治大学でしょう)の4名の落書きは、「1937.8.10」と、日付がはっきり読める状態です。1937年というと、昭和12年です。 この落書きがされた理由はどこを当たっても見当たらないのですが、推測するに、房州石の石切り場(採石場)であったこの場所で、登山かクライミングor岩壁降下の訓練をした学生が書き残したものではないかな?それとも、採石の実習かバイトに来たか? この物件について検索すると、「観音様に落書きするけしからん学生が昔もいた」という論評が散見されますが、百尺観音が彫られたのは戦後になってからのこと。1937年当時ここはただの石切り場跡であったと思われ、当時は問題視されることではなかったのではないかなと想像します。 いずれ、これらの落書きは、80年以上たった今日もそぎ落とされることなく参詣者の目に留まっています。 百尺観音の広場を奥に進むと(厳密には、上記の落書きは広場を奥に進むと見える)小さな切符売場があり、係員がお一人駐在されています。 ここが「北口管理所」といい、金谷の町から登山をしてきた人が日本寺の境内に入構する場合に参詣料金を納めるゲートとなっています。 今回の日本寺めぐりで最後に目指す人気ポイント「ラピュタの壁」は、このゲートを出た先にあります。 ラピュタの壁を見た後にまた境内に戻って良いかと係員氏にお伺いしたところ、本日のチケットを提示すればOKとのお返事。 安心して、非常に高くて狭い岩壁の狭間を抜けて、ラピュタの壁に向かいました。 ラピュタの壁は、この北口管理所ゲートを出て、ほんの少しだけ下ったところ(足元注意)。 そこは…Kazuにとっては「地獄のぞき」以上の場所でした…。 のこぎり山バウムクーヘン お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
|