カテゴリ:建築家とマーケティング
意味とかコンセプトとか、最近さかんである。
私も、記号論的にここらで考えてみようと思う。 NET系や、WEB2.0や、自己啓発本みたいに、解説がすぐ陳腐化するので、言うんだったら早めにいっといたほうが、 「すごいねー。」といわれるかも。 ●主張1 「意味」と「形やコト」(形態)を、分けて考えたり、考えるのに順番を付けたり、主従をつけて考えるのは不必要ではないだろうか。 上記の答えに至るのには2つのルートがある。 ○第一のルート 1 一つの意味には多くの形態が考えられる。 2 一つの形態には、多くの意味が考えられる。 3 一つの意味には多くの意味が無限に繋がっている。 1,2,3を全体としてみて、主従を考えるに、一つの従から特定の主は導かれない。 しかも、主従関係がぐるっと一回りして環状になることさえある。 よって、主従をつける事は不必要。 ○第二のルート 1 意味は言葉=発音によって、制約確定される。 2 言葉(音)は物理的認識的に、形態(光(視覚)、臭い、触覚、味覚)と同列である。 ※目は口ほどにものを言う。とか百聞は一見にしかずという言葉を聞いたことありますね。 1 2 を合わせてみれば、「意味」は、発音(言葉)であろうと、絵であろうとなんでも表現可能。 なぜなら、すべてつながり、一体化しながらも多対多且つ、多次元空間で重合しているからである。 言葉(音)は、意味を他人に伝える時、不十分だが、容易であるというプロトコルだ。というだけであって、脳内では他と同列。最初から伝える事ばっかりじゃ考えるのに邪念が入る。 脳内は伝えるための、三段論法のようにはなっていない。そんな脳じゃ処理速度が10の8乗位遅くて、生活できない。 ○○つまり つまり、意味も形態も多重に関係する世の中、いいかえれば脳内空間の一部としてまったく同等である。 脳がそう認識するから、現実形態がある。これば脳が認識するから意味がある、ということと同義である。 では、決め手は何か?と言えば意味でも形態でもない。 重要なのは、それらが全体として組み上がった、「様」の美しさである。 ※無数にある小説や映画の意味は、勧善懲悪、成長物語、危機からの脱出、希望、愛、友情、非日常性など、数えるほどしかない。 しかし、同じ意味構造でも作品によって出来は月とすっぽんである。 意味が強ければいいかといえばそうでもない。 料理の味つけのように。 ●主張2 建築家とは 意味はだれでも考えられる。(当然絶対解などというものは無い) しかし実現可能な建築としての「形態」を考えられる人は限られる。 一体として考える事が不可欠であるため、そこに建築家の出番となる。 その化学合成のように一体化したものを2人の人が成分ごとに考えるのはとっても難しい。 なぜなら、脳があるから世界があり、2人の脳から見た世界は異次元空間であり、パラレルワールドなのである。 それ以前に意味と形態を一体化しない設計者が多いのも事実だが。 建築家とは、 標準化された前例を沢山知り、鵜呑みにする人でもなければ、 企業で、他人や会社が受注した工事の設計をする人でもない。 受注だけして設計は他人任せの人でもない。 ましてや、特定分野の技術研究に秀でた人でもない。 ○○つまり、建築家とは、 建築家個人と依頼者のパラレルワールドをリアルな建築を通して繋いだり、分けてもらったりすることを期待する顧客が、一人以上いる者である。 先の「生活大家」とは、そんなパラレルワールドを持つのにとっても重要だと思う。 そして、それは多数の意味と形態が一体化し、その組み方が、雪の結晶のように美しい。 科学的な証明はされてないけど、哲学系の人にはクオリアとよばれているらしい。 ●しかし、戦術によっては、意味と形態を分けることもある。 例1>ヨーロッパの高級ファッションブランド。 ヨーロッパのブランドメーカーは形態に対する意味は公表しない。 評論家やメディアは色々いうが、メーカーとしての奥にある深層の意味は公式発表はしない。 恐ろしいほどしっかりと意味を内に秘めながらも。。。 特定の形態にたいする意味がはっきりすると、そこに合理性が生まれる。 合理性は高級ファッションにとって不倶戴天の敵である。 また、ターゲットも、自分が他人より優位な価値観を持っていると信じる人達である。 意味ー形態の関係の認識がみんな同じだとばれちゃうと、価値観の優位性が無くなる。 ※つまり「知ったらしまい」なのである。仕手みたい。 例2>比較的安価で短期的な消費財を大衆に一気に売りたいときの広告戦術。 この場合、戦術として有用なのは、一つの意味に対して形態は1つしかないと訴えること。 本来カオスな世界を強引に単純化しようとする試み。 これは、その形態を作っているメーカーにとって得。 ※すぐ競合に対抗策やられますけどね。 例3>世論工作諜報戦術 イギリスvsアメリカ イギリス流は、他国の世論工作する場合、意図は最後まで明らかにしない。一部に意図する意味が含んだ形態をじわりと浸透させる。 そして、その意味が無意識の中に充満したと判断した時。。 ぽとりと着火剤を落とす。意味を意識上に上げる触媒である。スキャンダルでもなんでも良い。 気化爆弾のように強力で、不可逆的な変化が起こる。 意味の「トロイの木馬」。意味の多元性の高等利用。 もしかしてホ○リ○モ○事件って、イギリス流の触媒?。 これは、長年植民地を拡大してきた、伝統から編み出されたものである。 最初から意味を明らかにしては、徹底抗戦される。 ※この未発火充満状態を見きる眼力があると、株投資なんかが上手になるんだろうなぁ。 アメリカは、短気である。最初から、意味と形態を一体化して、主張する。 イギリスと対比すれば、気化爆弾じゃなくて、最初から派手な火炎放射器。 その結果 「勝手に指図するんじゃねえよ!」 と反発され、相手国の民族主義を高めちゃう。 ※※この文章は記号論の解説ではありません。"記号論的に"私が考えた内容です。 ※※興味ある人は、このブログもあわせて読んでね。 人気blogランキングへ お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2007.01.21 02:13:58
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