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テーマ:ママの気持ち(579)
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今日は、自分の気持ちに区切りを付けるために、この日記を書くことにしました。
でも、内容がかなり重いし暗いので…そういうのが苦手な方、元気のない方はスルーしてくださいね。 日曜日は、私の大好きだった伯父の7回忌でした。 伯父は口下手で不器用な人だったけれど、優しくて、私に愛情を注いでくれた人です。 なので、どうしても行きたくて行った、親族の集まる法事。 そこで私は、2年以上会っていないある人と、久しぶりに会いました。 …と言っても、お互い目を合わせることは1度もなかったので、正確には『久しぶりに同じ空間にいた』だけですが。 それは、私の母です。 そして父と、末の妹も。 私は長女で、すぐに妹ができたせいもあって、母に甘えさせてもらった記憶はありません。 「あんたはお姉ちゃんなんだから」と言われ、何でも、「我慢しなさい」「妹の面倒を見てあたりまえ」で、 長女の宿命か、怒られるのはいつも私。 でも、これは仕方ないと思っていました。 私には妹が2人いますが、小さい頃から全ての面において比べられ、私が100点を取っても「あたりまえ」、 98点を取ったら、「あと2点はどうしたの?」褒められることは、ほとんどありませんでした。 私を褒めると、すぐ調子に乗るから褒めたくないと言って。 たまに褒められると本当に嬉しくて、『調子に乗ってウザい』と思われるくらい、私にとって褒められることは稀だったんです。 そして、妹の方が成績がいい時は、母はたくさんの厭味を私に言いました。 だから、いつからか、私は妹がもっと悪い点数をとればいいんだ、と思うようになっていました。 その上、母は、私のことをよくけなすような発言をするので、 妹たちも、それをマネして、私をよく馬鹿にしました。 物心ついた頃から、私にとって妹は、母と一緒になって私をけなす、嫌な競争相手でした。 そんな風だったので、私は、家の中にいて心が安らぐ、居心地がいいと感じるのは、家に誰もいないときでした。 小学校4年生のときには、「私なんていない方がいいんだ」と思っていて、夜、布団の中で、 明日になったら、私がこの世から消えてなくなっていればいい、と本気で考えていました。 子供の頃は、友達はいても親が自分の大部分を占めていて、その親に愛されていないと感じると 自分には何の価値もない、生きていても仕方ない人間なんだ、と思えました。 私は、自分の居場所がない、自分に全く自信を持てない、暗い子供でした。 極めつけは、私が高校生の時。 父が倒れ、精神のバランスを壊していた母は、包丁を手にとって 「あんたなんか、生まれてこなければよかったのよ!」 と言って、私を刺そうとしました。 その時は、妹たちが母の体を押さえてくれたので、私は刺されることはありませんでしたが、 本当に、本当にショックでした。 包丁が向かってきた時は本当に怖かったけれど、でもその時、私は心のどこかで、 私なんて刺されて死んじゃえばいいのに、とも思っていました。 この後のことは、よく覚えていません。 その後、何食わぬ顔して、みんなで食卓を囲んだのでしょうか? 私お得意の、何事もなかったような顔を作って母と話したりしたのでしょうか? 人間、本当につらい時は、親友にどんなに相談に乗ってほしくても、話を聞いてほしくても、 何も言葉が出てこなくて、話せなくなるということを、私はこの時初めて知りました。 本当に本当に辛くて、ショックで、どうしようもなく打ちのめされていたので。 1人だったら、私はもうとっくに、この世に見切りをつけていたかもしれません。 でも、私がそうしなかったのは、 その時、今の夫が、ずっと私のそばにいてくれたからです。 彼は、私から話し始めるまで、私が泣いている理由を全く聞こうとはしませんでした。 やっと理由を話すと、彼は、「あと3年待てるか?」と私に聞き、 その3年後、社会人になった彼は、反対する自分の親を説得して、 うちの両親にも挨拶をして、マンションを借り、私を家から連れ出してくれました。 私は、大学は奨学金をもらって通い、家賃や生活費は2人で。 私はやっと、自分の居場所を手に入れたような気がしました。 その後も、私は、大学やバイトの合間を縫って、親の店を毎週手伝いに行ったり、 実家の夕飯を担当したりして、何とか親との関係も繋いでいました。 それでも、母は、相変わらず私に文句ばかりを言って、 店に手伝いに行っても、「あんたなんていても無駄」といつも言っていました。 でも、たまに別の用で店に行けないと、機嫌が悪くなり、キレていた母。 来てあたりまえ、と思っていたのかな。 嘘でも、「いつもありがとね。助かるよ」って言ってくれたなら、 忙しくてどんなに大変でも、気分よく、喜んで手伝いに行くことができたのに。 また、何かの拍子に、あの刺されそうになった時の話になると、 母は不機嫌になり、「あんたって、その話ばっかり。しつこい。嫌な子」と言われました。 いつでも良かったから、一度でも、 「あの時はどうかしてたの。ごめんね」 って言ってくれたなら、私はあの事を忘れられたと思うのに。 母の機嫌を損ねないように、いつも気を使いながら母となんとかやっていた私。 子供のころから、母の顔色を窺って、反抗したり、言い返したりすることはできませんでした。 私にとって母は、好きなのに疎まれて甘えることが許されない人、私を簡単に傷つける人。 いつも、どこか、私の心の負担でした。 母は、私が結婚して幸せなのも気に入らなかったみたいで、それを感じ取ると、夫をけなしたり、 不機嫌になったりもしました。 やっと見つけた、初めて私を必要だと言って大切にしてくれる人なのに、それも悲しかったです。 親は、子供の幸せを喜んでくれるものではないのかな。 そんな関係を続けていて、そんな関係さえも壊れたのは、今から3年くらい前でしょうか。 あることがきっかけで、一番下の妹と私の間に確執ができたのが始まりでした。 母は、「あんたは心が狭い。どうして一言いってあげられないの?」と、私の気持ちを、話を全く聞こうともせず、ただ私を責め続けました。 それでも私が母の言うとおりにしなかったので、しまいには怒鳴られるか、無視されるかの状態でした。 その時の私は、別のことでずっと母からかけ続けかれていたプレッシャーのせいで 心身ともに限界で、 仕事先で過呼吸を頻発したり、体には、体が弱ったためにできた無数のあざのようなものができていました。 そして、ある日、実家に真ん中の妹といた時、仕事から母が帰ってきて、また、怒鳴られ罵られました。 その時に、ずっと我慢して押さえていたものが抑えられなくなり、私は過呼吸を起こしました。 それを見た母は、 「いいわね~。病気になれば済むんだから」 その時に、私の中で何かがブチっと切れ、私は荒い呼吸と涙交じりの声で、 「誰のせいだと思ってんのよ!」 と、思いっきり怒鳴っていました。 その後、母が何を言ったか、または何も言わなかったのか、今はもう思い出せませんが、 ひとつ覚えているのは、 呼吸がどんどん荒くなり、体中が痺れて脱力して座り込んで苦しんでいる私の前を、 母は、心配することもなく、ただ、平然と通り過ぎて 別の部屋に行ってしまったこと。 その場にいた父も、母が消えた後でさえ、目の前で苦しむ私をただ見ていただけでした。 どうして、父も「大丈夫か?」って一言聞いてくれなかったんだろう? 私は、もうこんなところにいたくない、と強く思って、言うことをきかない体を 無理矢理体を動かして、朦朧としながら家を出ました。 その後、私は海外で働くことが決まり、「ちゃんとお母さんに言わないとダメよ」と義母に言われて、 もう一度だけ、母に会いました。 よく覚えていませんが、その時の母は、やっぱり私を罵ったと思います。 私が、海外で働くことがずっと夢だったことを誰よりも知っていたはずだから、応援してほしかったのに。 私に、「すごいね!せっかくのチャンスなんだから、行っておいでよ」と、 結婚していて夫を置いていっていいのかと迷う私の肩を押してくれ、応援してくれたのは、義理の母でした。 渡欧前、こんな自分勝手な嫁に、多すぎるお餞別と 「元気に帰ってきてくれれば、それだけでいいからね」と手紙をくれ、 現地で生活中も、折にふれてメールをくれたのも、義理の母でした。 私が実母にして欲しかったことをしてくれたのは、理想だと思うのは、いつも義理のお母さんでした。 その後帰国して、5年子供ができず悩んでいた私にやっと子供ができた時、 私は、勇気を出し、思い切って母に電話をしました。 赤ちゃんができたんだ、と報告すると、 「そうですか。頑張ってください」 …と、冷たい、何の感情もない声でこれだけ言われました。 これが、母の声を聞いた一番最後です。 出産の時も、夫は、うちの実家にも連絡を入れてくれました。 でも、母はやっぱり病院に来ることはありませんでした。 その後、年賀状に、りぃ。の写真と、 「2人が私を健康に生んでくれたおかげで、無事元気な赤ちゃんを産むことができました。ありがとう」 と、心をこめてメッセージを書き添えて送りましたが、返信はありませんでした。 年賀状は、2回送りましたが、どちらの年にも返信はなく、 その後、実家の家族は引っ越しをしたそうです。 もちろん、新しい住所を知らせてくることもなかったです。 妹達は、私に、「さっさと謝っちゃえばいいんだよ」と何度も言ってきました。 大変なのは、私たちなんだから、と。 でも、私だけが悪いの?という思いと、母は、私と関係を少しでも修復する気がなく、 私の話を聞く耳ももたないのに、そんな相手に、上っ面だけで謝って関係を修復して、意味があるの? という思いから、私は妹たちが言うようにはする気になれませんでした。 私も娘をもつ母になりました。 親になると、親のありがたみが分かるといいますが、私は、 私を産んでくれて、今までお金をかけて育ててくれた事には感謝していますが、 益々母のことがわからなくなりました。 私だったら、大切な娘とこんな関係になってしまったら、ちゃんとお互いの考えていること、 気持ちを、ちゃんと向き合って分かり合えるまで話したいと思うので。。 そうして月日は流れて、この日曜日に、久しぶりに顔を合わせることになった私たち。 私は、決めていたことが1つだけありました。 それは、母が りぃ。を見て、少しでも可愛がってくれたなら、私は、母と話してみよう、と。 でももし、母が りぃ。を見ても態度が全く変わらなかった時は、もう、母の事は諦めよう。 母への気持ちに整理をつけ、母のことを考えて 落ち込んだり悲しんだりするのはもうやめて、 前を向いて、今ある大切な家族を、これからも大切にして歩いていこうって。 結果は。。 母は、りぃ。がトコトコと近寄った時、 りぃ。をちょっと一瞥しただけで、完全に無視していました。 まるで、嫌なものでも見るような感じに、私には見えました。 これで、私は、自分の気持ちに整理を付けます。 もう、母に期待するのはやめて、母の事は忘れます。 おばあちゃんと呼べる人が1人いなくなってしまって、りぃ。には申し訳ない気持ちもありますが、 いつか、私と母については、ありのままを りぃ。に話そうと思っています。 私の決めたことは、間違っているかもしれません。 でも、自分で決めたことに後悔はありません。 こんな日記を最後まで読んでくださった方、本当にありがとうございました<(_ _)> 思っていることを全て吐き出せたので、今日を区切りに、これから前だけを向いて頑張ろうと思います。 親に愛されなかった私が、娘をちゃんと愛し、育てていけるのかと不安に思うこともありますが、 私なりに、自分らしく、これからもりぃ。と一緒に成長していきたいと思います! お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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