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中二の時、骨のある英語の先生がいた。テストでいい点を取って喜ぶのはバカだという。テストというものはどこがわかっていないかを知るためのもので、できてなかったところをもう一度見直して、今後の勉強に役立てるところに意義がある。仮に百点を取ったとしたら、そのテストから得るものは何もなかったということで、要するにテストを作った教師は、自分のためになることを何もしてくれなかったということだ。だから、もし百点を取ったら、その答案の価値はゼロに等しい。先生は「答案を返す時に、オレの目の前で破り捨ててもいい」とまで言い切った。
先生の目の前で答案用紙を破り捨てるなんてかっこいい。成績のいいやつらは色めきたった。それまで以上にがんばった。それでも、97点とか95点とかは取れても100点はなかなか取れなかった。 いちばん最後の試験でついに100点を取ったやつが現れた。答案を返す時、あのこわ~い先生が深々と頭を下げて一言「まいった」と言った。 あとでそいつに「なんで破り捨てなかった」と訊いたら、そいつ曰く。 「やりたかったけど、あそこまでされたら、できない」 その先生が教科書は必ず50回読めと言っていた。授業には必ずテープをもってきて、何度も聴いて何度も繰り返した。これだけでも、「日本人が英語ができないのは、音声言語としてやっていないから」という立花隆の言説が戯言であることがよくわかる。テストの点が悪かった生徒に「何をしていた」と訊き、「問題集やってました」と答えると、大きな声で叱りつけた。「アホか。肝心なことをしないで、問題集なんかやってどうする。まず、声を出して教科書を50回読め」 ぼくはそれをいいことに、英語の勉強といえばまさにそれしかしなかった。 だって、ボク練習問題きらいやもん。 今でも練習問題は絶対にしない。語学の参考書にはたいていと言っていいほど、「過去形の作り方」などと書いてある。そういうものは「何を言ってるか」というくらいの感覚で軽く受け流す。過去形にかぎらず、ありとあらゆる文法事項はもともと決まっているもので、外人ごときに作れるものではない。ルールを覚えて、そのルール通りにいけばどうなるか考えても何の意味もない。そんなことをする暇があれば、さっさと答えを見て覚えてしまう方がよっぽど賢い。ある程度具体例が頭に入れば、逆にルールなんて自然にわかるようになる。 この徹底した「練習問題ぎらい」が、やがて文法を体で覚えることにつながっていく。原文を読むときに「これが主語で、これが動詞で、これがこれにこうかかって」なんて考えていても始まらない。肝心なことは、その文を書いた人が、ひとつひとつの単語をそのような順に並べて、いったい何を伝えたいかということだ。だったら、文法のことなんか忘れて、ただ情報を引き出すためだけに頭を使うのがいちばんいいに決まっている。かといって、そんなことをしたら、ふつうはそこにある単語をでたらめにつないで自分に都合のいい解釈をしてしまうのがオチである。だからこそ、文法を体にしみ込ませておく必要がある。 文法構造というものは引き出しのようなものだという「引き出し理論」もたどっていけば、中二の時の英語の先生から始まっていたのかもしれない。 ←ランキングに登録しています。クリックおねがいします。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2006年09月08日 16時53分39秒
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