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カテゴリ:翻訳
 学校というものが非常に困ったものだと思う理由のひとつは、肝心なことを何も教えてくれていないことである。

 他人にモノを習うとき、どういう姿勢で向き合うべきであるかを何も教えていない。

 だから、翻訳講座などをすると、習い事をしたことがある人や、クラブ活動などでしかるべきコーチについて、基本からきっちりスポーツを習ったことがある人の方が圧倒的に上達が速い。


 まず、指示を受けたとき、その指示をどう考えればよいかがわかっていない。そういうことは、常識中の常識、だれもがわかっていて当然のことであるのに。

 ぼくの紹介や推薦で仕事をしたことのある人ならもうわかっているはずだ。ふだん、口うるさく言っているぼくが、今までの指示にはこだわらず、好きなようなやれと言う。それよりも、翻訳会社やクライアントの声にひたすら耳を傾けよ。教室での指示が守れない者にクライアントの声が聞こえるわけがない。

 教室では指示を守っているが、仕事では指示を破ったことが二回あると「告白」した受講生がいるが、何ら責められるべき行為ではなく、むしろ褒められるべきことである。

 つまり、指示というものは、教室内では絶対で、教室から一歩外へ出れば相対的なのだ。いたって単純、それだけのことでしかない。教室内ではたとえ指示に従えば誤訳になると判断したとしても、指示には従ってもらわなければならない。もしも、そういう受講生がいたとすれば、高く評価して三階級特進くらいには処遇する。(これを読んでからやっても、もう遅い)

 高校で陸上をやっていたときも、一年や二年のうちは、とにかく先頭につけという先輩の指示があれば、無茶であろうが何であろうが従うしかなかった。あとはボロボロになっても、そのハイペースについたときに、自分の体がどんな状態になるかがわかる。三年になって全体のペースが速いとみるや、最後尾につけて最後はきっちり目標の順位で返ってくることができるようになったのも、その指示を守ってやってきたからこそである。


「なぜ指示守れないか」を訊いてみると、「指示そのものが納得できるものとして頭に入ってこない」、「理解を深めてこなかった」、「なぜ使ってはいけないかがわからないままになっている」などという答えが返ってきた。

 ごくまれに「自分の不注意以外の何物でもありません」、「一時的に失念していました」という答えが返ってくる。指示というものの社会的通念が頭にあれば、ほぼそういう答えになるほかないはずである。

 なかには「物心ついて以来、学校でも家庭でもひとつひとつの言葉の意味や用法について教えてもらった記憶もなければ、自分で興味をもって学んだ記憶もない」という回答があった。そもそも、「自分で興味をもって学んだ記憶がない」と公言する者が翻訳の仕事をしたいと思うこと自体不思議でならないが、それよりも何よりも、この回答は「なぜ指示を守れないか」という問いに対する答えになっていない。逆に、だからこそ指示を出しているのであって、だれもが同じことを学んで、同じことを了解しているという認識があれば、指示など出す必要はない。


 もうひとつ、「ただ、私はやはり理由がわかっていた方がはるかに身につきやすい」という回答があった。若干、甘えが垣間見えないでもないが、一応「ただ」と断ってある。正論であると思う。

 そこで、ぼくも「ただ」と断ろう。「理由がわかっていた方がはるかに身につきやすい」と言われれば、確かにそうにちがいない。ただ、それで本当にいいかどうか。

 あるものについては理由を伝えて、ある指示については敢えて理由を言わないのも、(今度は逆に習う側が敢えてその理由を訊かないのも)教える側と習う側とのいわば虚虚実実の駆け引きなのである。

 いっさい理由を説明しないのも、指導として成り立たないが、何もかも理由を説明してしまうのも、指導のあり方として本来ありえない。

 理由を説明した方が身につくのは速くても、ずっとそれで来てしまったら、新たな問題に遭遇したときにそれを自ら解決する力が身につかない。まさに犬山市長の言う「自ら学ぶ力」が身につかないわけである。

 どこまで理由を説明して、どこまで伏せておくか。これは実に微妙な匙加減の問題である。だから、「私はやはり理由がわかっていた方がはるかに身につきやすい」というのは、本当はものすごく野暮な発言なのである。


 知識なんてものは本を読めば書いてある。だから、学校では本来こういうことをきちんと教えておいてほしいと思う。そうすれば、社会で必要なことを教える作業にスッと入っていける。それがないものだから、まずモノを習う姿勢から教えなければならない。

 ぼくが学校を怨む所以である。


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最終更新日  2006年10月26日 09時01分18秒
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