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 囲碁や将棋の棋士と作家には共通の苦労がある。同じ手は二度使えないので、常に新しい手や表現を生み出していかなければならない。

 二度、三度と許される手や表現でも、ここぞという時にとっておかないと値打ちが下がる。

「~なのである」ひとつをとっても、よく考えないで使っていると、肝心な時に効果が出ない。いわゆる狼少年である。本来、狼少年と言えば、狼に育てられた人間の子どもを指すもので、ウソがたたって狼に食べられた少年は「狼と少年」であるが、おどけて「狼少年」という使い方をする人がいるので、ここでも「狼少年」を使わせていただくことにする。


 日本語では本来、数学の集合論にかかわるものは副詞的に表現する習わしになっている。「すべての人」ではなく「人はみな」、「多くの人」ではなく「人が大勢」というように。逆に、だからこそ「すべての道はローマに続く」という一節がそれなりの力を持ちうるのであって、「すべての」がふつうになってしまえば、「すべての道はローマに続く」が「どの道もローマに続く」と変わらない「その辺にころがっている文」になってしまう。当然、ローマの価値も色褪せる。

 ぼくもむかし、「すべての民族の文化と言語が等しく尊重される時代をめざして」という看板を掲げて、ある活動をしていたことがある。意味の上では「どの民族の文化と言語も等しく尊重される時代をめざして」と変わらないが、「すべての民族の」とした方が思いを強く訴えることができる。


 ところが、ここ10年のうちに、「残らず」、「ことごとく」、「全部の」、「何もかも」に相当するものをまったく一律に「すべての」で表現するような悪習が広がってしまった。「全便欠航」と言えるものを「すべての便が欠航」、「宮城県ではだれもが」と言えるものを「すべての宮城県民は」と言うようになってしまった。まるで外国人の日本語を聞いているようである。なかでも「すべての○○県民は」という使い方を広めることは、「世界遺産」とも言える日本語の「は」の用法を、価値もわからない連中がよってたかって瓦礫同然にしてしまうことであり、断じて許される行為ではない。


 ここぞという時にだけ使うから値打ちがある。そんな当たり前のことが忘れられてしまった。同じ「全部」でも、使う人の立場とか気持ちとか、微妙な差を伝えたいときに使い分けることができたはずのことばが、今は野に捨てられている。これも世に言う愚弄春化現象のひとつなのだろうか。

「すべての」はウイルスだなんて言ってるこのぼくだって、ごくまれには、ここは「すべての」を使って力をこめたいと思うことがある。これだけは「どの~も」や「~がことごとく」では思いをこめることができないと思うことがある。だけど、そんなことをしても、みんながふつうに使っている「すべての」と同じものになってしまう。


 だからもう「すべての」は使えない。



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最終更新日  2006年10月31日 13時41分56秒
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