|
カテゴリ:翻訳
ぼくが『翻訳の原点』を書いたとき、実はその前に没になった原稿がある。『もしもアインシュタインが翻訳家だったら』という書名を予定していた。没になったのは、出版社のNOVAがどちらかといえば、学習者向けの教材を中心に出版している会社で、これまでの翻訳理論を見直すことを中心にした内容には積極的になれなかったからだ。今でも、翻訳会社の方々のなかに、この「幻の迷著」をぜひ読みたいと言ってくださる方がいる。
そのときは、翻訳業界は物理学より100年遅れているという思いがあった。 あれ以来、理論の点では、かなり追いついてきたのではないかと思う。ところが、製造業との比較で考えると、公害対策などの点では50年遅れているという思いを強くしている。簡単に言うと、こういうことだ。翻訳者は文化や科学知識を伝達する重要な担い手であるなどと粋がっているが、自分の行為が環境破壊につながるおそれがあることなどまるで考えていない。ちょうど50年前の製造業と同じである。 翻訳者も確かに社会のためになることをしている。しかし、社会のためになることをしているのだから、何をしても許されるわけではない。外国の文化を伝えるために、本来の日本語にはなかった表現を使わなければならないことがある。その作業が適切であれば、日本語を豊かにすることにつながるが、一歩間違えれば日本語を粗悪なものにする可能性を孕んでいる。いつ日本語環境の汚染に加担することになるやもしれない作業にかかわっているのだという自覚が、翻訳者には必要である。そういうものがない人があまりにも多い。 かくなるうえは、翻訳にも「環境ビジネス」が必要ではないかと考えていた矢先である。 oftenが特定の頻度を表すものであるから、必ず「しばしば」と訳さなければならないとか、「採集する及び分析する」のような「及び」の使い方が日本語として何ら問題がないなどという戯言をはじめ、荒唐無稽な理論を並べ立てる集団に遭遇した。これではまるで、地球が不動のもので、その周りを太陽や星が回っているとする天動説そのままである。しかも、そのうえに強大な権威をもつ法王のような存在がいて、いっさいの意見、反論を受けつけないというのだから、まさに中世の法王庁と変わるところがない。今日もまた一人、翻訳者が異端審問で裁かれ、神に奉仕して自らを向上させようとする熱意も意欲もない翻訳者という烙印を押された。 法王庁には、科学とはまったく無縁の「法王庁の十箇条の掟」がある。仮説を立て、何度も実験を繰り返して到達した結論と言うにはほど遠い。この十箇条に従って翻訳しようとしてもうまくいかないことが必ずある。そんなとき、もう一度理論を疑ってかかるのが科学者の取るべき姿勢であるのに、そういう姿勢がまるでみられない。 私はどんな指摘を受けても、必ずもう一度自分の理論を検証する。絶対にごまかしたりはしない。現時点で理論だけで解決できない点は率直に認めて、次の段階の研究に入る。 とりあえず、oftenについてだけ言及しておくと、法王は「しばしば」は医学の慣用であり、頻度にして80~90%を意味するものであるから、それ以外の訳では医師が判断に困るので、絶対に「しばしば」と訳してもらわないと困ると主張しているが、英語のoftenは時間の経過を伴うような事柄について全体に占める割合を示すものであって、頻度だけに限定したものでもなければ、「しばしば」のように、あることが起きてから次に起きるまでの期間の短さを表現するだけのものではない。「しばしば手術の適応となる」とすれば、「一度手術をしても、短い間隔で何度も手術しなければならなくなる」という意味にしか解釈できないというのが、日本語の母語話者のいちばん正常な感覚である。 いかなる専門分野の慣用であっても、憲法の下に法律があるように、日本語の範囲を逸脱してまで、それぞれの分野で勝手な使い方をすることはできないはずである。 それでもなお、「しばしば」が80~90%を表すというのが、医師の間に共通した認識であると主張するのであれば、これほど一般の人たちをバカにした物言いがあるだろうか。いくら医師を対象とした専門書であっても、一般の人だって家族が病気になれば手にすることはあるだろう。そのときに、医師の理解は「しばしば」が80~90%であると主張して譲らないのであれば、それはそれで百歩譲るとしても、「この本には日本語ではなく、西ハワイ語でしかない文で書かれている箇所があり、一般の人には誤った理解を植えつけるおそれがありますので、一般の人は十分に注意したうえ、ご購入、ご高覧くださいませ」などというような但し書きをつけるべきである。 さらにまた、「しばしば」が医師の間にだけ通用する慣用であるとすれば、なぜ法王が監修した家庭版の医学書にも「しばしば、細胞は生命の最小単位とみなされるが」という記述があるのであろうか。oftenには傾向を表す用法があり、この場合は明らかに「細胞は生命の最小単位と思われがちであるが」ということである。この部分は明らかにoftenの意味を知らないことによる誤訳になっている。 『もしもアインシュタインが翻訳家だったら』を書く前に、『もしもガリレオが翻訳家だったら』を書かなければならないことになるかもしれない。 宗教裁判で異端の烙印を押されたとき、ぼくは何と言えばいいのだろうか。 法王に尻尾を振る翻訳者 「それでも時給はもらっている」 ←ランキングに登録しています。クリックおねがいします。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2006年11月08日 21時39分08秒
コメント(0) | コメントを書く
[翻訳] カテゴリの最新記事
|