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カテゴリ:翻訳
 翻訳の評価をめぐる言い回しには非科学的、情緒的なものが多い。「直訳」、「意訳」など言語道断。そもそも「直訳」そのものが「意訳」(traduction libre)であって、未だに直訳か意訳かなどと言っている人たちの言う「直訳」では、「直訳」は「字面訳」(traduction litterale)となるはずだ。「直訳」という概念そのものが「意訳」であるのに(traduction directeとは言わない)、その「意訳」した「直訳」という概念を用いて、「直訳」しなさいなどと言われても、まず自ら襟を正しなさいと応じるほかない。

 だから、直訳か意訳かという議論は20世紀で終わっている。

 前世紀の亡霊はことごとく死に絶えたと思っていたら、「原文が透けて見える」という何ともザルのような評価基準が未だに残っていた。

 ドイツ語をものにした者がオランダ語を読むと、ある時突然、砂漠で蜃気楼に遭遇したようにドイツ語の文がくっきりと浮かび上がることがある。オランダ語で書かれた内容がよく理解できるようになった瞬間である。構文が似ているからではない。内容がはっきりと理解できたからである。

 いくらドイツ語とオランダ語がよく似ているからといって、単にひとつひとつの単語を置き換えただけでは、上のような現象は起こらない。見方を変えれば、ある言語が完璧にわかる者が別の言語で書かれた情報を解析できた瞬間、常に同じ現象が起こっていることになる。本当によくできた翻訳を原文と見比べると、「まさしくそっくりそのまま」だと思うけれども、構文そのものはまるでちがうことがある。

 そういう意味で訳文が原文とそっくりそのままであるかどうかは、だれにでも判断できることではない。訳文から原文が浮かび上がるかどうかは、その人の言語能力によるところが大きい。それなりの言語能力のある者がすぐれた翻訳を読めば、原文がくっきりと浮かび上がるはずである。

 だから、しかるべき人が見て「原文がくっきりと浮かび上がる」かどうかは、十分に評価基準になりうるものである。では、「原文がくっきりと浮かび上がる」ことと、「原文が透けて見える」こととは果たして同じであるか。「原文が透けて見える」という表現自体、厳密な吟味を経ずに使ったものであるので、実際にこの表現を使う人の意図と本来の意味との間にはズレがあることは否めないが、「原文が透けて見える」という人は実際に原文を再現できるだろうか。おそらくは「何となく、そんな感じがするんです」ほどの答えが返ってくるだけで、再現することなどできないであろう。

 再現できないものを「透けて見える」とはよく言ったもので、本当は透けて見えてなんかいないのではないか。ドイツ語の翻訳で「原文が透けて見えない訳ですね」と言われたことがあるが、その人のドイツ語の知識では、もともとのドイツ語がどういう構文で書かれているかがまったく想像できなかったというだけのことである。もしも「透けて見える」ものがあるとすれば、それは原文の形式であって、原文そのものではない。訳がまちがっていないかぎり、原文そのものはすでに見えている。

 そこで、「原文が透けて見える」を「原文の形式が透けて見える」に言い換えて考えてみよう。原文の形式が透けてみえるかどうかは、訳文の優劣とはまったく無縁のものである。同じ情報を伝達するのに用いられる形式が言語間で異なるのはもちろんであるが、基本的には異なっていても、情報によってはほぼ同じ形式で間にあうことがある。ほぼ同じ形式で間にあうときには「原文が透けて見える」と感じ、形式が大きく異なるときには「原文が透けて見えない」と感じるだけのことである。だから、「原文が透けて見える」かどうかは、同じ情報を伝達するのに用いられる形式が二言語間でどれだけ異なるかを判断する基準にはなっても、翻訳がすぐれているかどうかを判断する基準にはなりえない。

 この「原文が透けて見える」ことがよくないことであるような誤解が翻訳者の間に広まったために、非常におなしか現象がみられるようになってしまった。軒並み原文の形式をはずそうとする翻訳者がいる。「安全性を高める」でいいものを「事故を防止する」として、「原文が透けて見えない」いい訳をしたつもりになっている。

 文芸作品では「原文が透けて見えない」のがいい訳で、技術文献では「原文が透けて見える」のがいい訳であるというのも、まったくの邪説である。同じ情報を伝達するのにほぼ同じ形式でいいか、形式を大きく変えないといけないかは、一文ごとに判断しなければならない問題である。結果的に技術文献では相対的に同じ形式で間にあうことが多いということは言えるだろうが、時には大きく形式を変えてしまわなければ、技術そのものを誤って伝える事態になりかねない。

 翻訳者が「原文が透けて見える」ことがよくないことであると誤解した日には、上に書いたような困った事態が生じるが、医学者が(科学論文では)「原文が透けて見える」ことがむしろよいことであると誤解した日には、目も当てられない悲惨な事態に至る。

 どの文にも原文の形式が透けて見えるようにするためには、原文が伝えようとする情報とは関係なく、原文と同じ形式を訳文にもちこまなければならないことになる。そんなことになれば、至るところ言化けの山になる。

 そうなれば、日本語の思考が停止することは必至である。母語の思考を奪われれば、その人の人格は死ぬ。現代医学はついにロベクトミーに拠らずとも、非観血的に生きた人間から人格を抹消する技術を手にしたと言える。


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最終更新日  2006年12月10日 23時05分59秒
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