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カテゴリ:翻訳
知識というものはやっかいなものだとつくづく思う。 たとえば、次のふたつの文を訳し分けてくださいという問題があるとする。 □ I played piano and my brother played violin. □ I played the piano and my brother played the violin. そもそも訳し分けろということ自体、知識を試すものである。 知っているか知らないか。知っていることはよいことで、知らないことはよくないことであるというバカバカしい価値基準である。 外国語を操るうえで大切なことはその外国語の知識ではない。母語ができて、言語の本質がわかり、そのうえに思考力があれば、外国語は読み解ける。 上のような問題の出し方は、肝心なところをすっ飛ばして知識だけを問題にするものである。 一応確認する意味で出題するのなら、それはそれでいいけれども、この二つを訳し分けられない者は、原文のなかでそれぞれの文に出会った時に正しく理解できないと思われても困る。 上の文が出てくる時には必ず、「私たちは音楽一家に育った」などの記述があるはずで、あとの文の場合には兄弟でオーケストラを演奏することになった」ようなことが書かれているはずである。 だから、それぞれ次のような意味になることがわかる。 □ 私はピアニストで弟はバイオリンの奏者だった。 □ 私はピアノを担当し、弟はバイオリンを担当した。 知識などなくても、文のなかでI play piano やI play the pianoに幾度も出会ううちにそういうことがわかるようになる。それぞれが置かれている場のなかで、play pianoとplay the pianoの情報量が把握できれば、それぞれの意味は理解できる。 翻訳でも、もっと広く外国語を理解するという点でも、答えは現場にある。 捜査に行き詰ったら現場に戻れと言うように、意味の理解に戻ったら現場に戻れである。 思い込みが捜査の妨げになるように、くだらない知識が文の理解の妨げになる。 「楽器の前にはtheがつく」という知識だけが先行すると、上の文に出会ったときに、「theがつくと習ったのに、どうしてここにはつかないのだろう」と、文法的なことばかりが気になって、肝心の意味の把握に集中することができなくなる。 楽器の弾き方を知っているとか職業でその楽器を弾くときには冠詞はつかない。ただし、そういう知識は、経験から身につけるべきものであって、知識が先にあって、その知識を元に原文を読み解くべきものではない。 原文は母語の力と思考力、それに言語の本質の理解があれば読み解けるものであり、そうして読み解いて身に着けた知識こそが本当に血となり肉となるものである。 たとえばdocumented、長年医学の翻訳をしている者ならだれでもわかるが、経験のない者にはわからない。「文書化された」なんて冗談じゃない。 ←ランキングに登録しています。何かちょっとでも得るものがあったと思われたら、ぜひクリックをお願いします。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2007年05月15日 15時46分19秒
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