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カテゴリ:ファッションビジネス
そもそも私はマーチャンダイジングのプロになりたくて大学卒業後就職しないでニューヨークに渡りました。ニューヨークでの取材活動も、パーソンズ・スクール・オブ・デザイン夜間コースでバイヤー講座に参加したのも、バーニーズニューヨークのTOKYOブティック開設に協力したのも、すべてマーチャンダイジングの知見を得るためでした。
8年間いろんな仕事をしたことで米国式マーチャンダイジングを習得、そろそろ帰国しようかなと考えていたタイミングでデザイナー組織設立の話が飛び込んできました。自分がイエスと言えば、日本にもファッションデザイナーの組織ができ、短期集中型東京コレクションの自主運営が可能になるかもしれないと考え世話役を引き受けました。どのメディアや企業にも頼らず東京コレクションの自主運営が軌道に乗ったらマーチャンダイジングの仕事にと考えていましたが、なかなか退任できる状況にはなりませんでした。
しかし、CFD設立9年に盟友・市倉浩二郎の急逝で目が覚めました。今度はなにがなんでもCFDを辞めて念願の仕事をと決意、退任したい気持ちを伝えるために長文レポートをまとめ、CFD幹事団とアドバイザーや親しい友人たちに配りました。この退任決意レポートを配った友人の一人が当時松屋の東京生活研究所取締役ファッションディレクターだった杉本明子さん、ニューヨーク時代からの友人です。このことが私の人生を大きく変えました。 杉本さんはまだ海外留学生が少なかった1960年代後半、英会話習得のため米国西海岸に渡りました。現地の図書館でニューヨーク州立ファッション工科大学(通称FIT)の存在を知り、入学願書を取り寄せてニューヨークに引っ越し、FIT4年制コースを卒業。就職したのが旭化成の米国法人でした。
その後一旦帰国して旭化成本社に。頭を短く刈り上げ、ポルカドットに部分染めして帰国したそうですから、当時の旭化成の社員はさぞびっくりしたことでしょう。当時はかなり目立ったと思います。職場の上司だったのがこのブログ「交友録6」で触れた原口理恵さん(旭化成のあと伊勢丹研究所に迎えられたファッションディレクター)です。
しかし、男性社会の当時の日本、米国で教育を受けた杉本さんには窮屈だったのでしょうね、ストレスから胃潰瘍になり、結局ニューヨークに戻ったと聞いています。
私が杉本さんのことを初めて知ったのは、1980年代初頭に伊勢丹がニューヨーク駐在オフィスを開いた頃です。伊勢丹のバイヤーやコーディネイターを連れてニューヨークコレクション会場でよく見かけ、ブルーミングデールズなど売り場でもたびたび遭遇しました。月、火曜日は旭化成勤務、水、木、金曜日は伊勢丹の掛け持ちとパワフルに活躍、ニューヨークのキャリアウーマンのように颯爽と歩く姿は怖そうなお姉さんそのものでした。しかも噂では男性社員を叱り飛ばすことで有名だった伊勢丹研究所のKさんを説教して泣かしたそうですから、私は常に一定の距離を保っていました。
が、ある日伊勢丹一行を連れた杉本さんが狭い日本食レストランに現れました。先に食事していた私がカウンター席を立たないと杉本さんらは奥の席に進めませんから無視することもできず、ここで初めて名刺を渡して「今度ゆっくりお食事でも」とご挨拶。その数日後に「今度っていつですか?」と連絡がありました。会食したら意外や怖そうなお姉さんではありませんでした。以来、親交を深め、杉本さんやその友人らとの情報交換の会食が増えました。 一方、杉本さん自身は山中社長時代に顧問契約した松屋で仕事がしたいと意見が分かれ、結局私が間に入って1991年最終的に松屋の東京生活研究所取締役ファッションディレクターに就任しました。杉本さんが旭化成本社勤務の際に上司だった原口理恵さんが設立準備をした研究所、ご縁ですね。
杉本さんは私を松屋に誘ったことで幾分気が楽になったのでしょう、妹さんが病死した後松屋のことは私に託して再びアメリカに戻りました。暑い季節はメイン州の一軒家、寒くなったらフロリダ州のマンション、なんとも優雅な暮らしをしています。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2023.08.27 14:24:30
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