|
カテゴリ:太田伸之
今日はファッション流通業に関することではなく、ガキの頃に私を導いてくれたありがたい恩師のことを書きます。
私は三重県桑名市で生まれ、育ちました。桑名市立益世小学校で4人、桑名市立光風小学校で2人、県立桑名高等学校で2人の担任の先生にお世話になり、それぞれ卒業時の担任の3人の先生とは長らく年賀状のやり取りが続いています。残念ながら数年前光風中学3年生の担任だった小黒哲郎先生はお亡くなりになりました。 桑名市立益世小学校 益世小学校に入学して最初の2年間は女性の饗庭渚(あいば・なぎさ)先生が担任でした。先生には私と同年齢の娘さんがいて、のちに彼女とは高校で同じクラスになり、同時期に上京し、私がニューヨークに住んでいた頃は航空会社CAさん、ニューヨーク便業務の際はわが愛煙ショートホープを買ってきてもらう仲でした。 わが人生で後にも先にも一番素晴らしい成績表をもらったのが小学2年生3学期。2年間お世話になった饗庭先生から成績表を手渡されたとき「太田くん、放課後残ってください」と言われました。成績評価に大満足だったのに、教室にただ一人残されて先生からしばしお説教。「将来あなたはこの学校のリーダーにならなきゃいけない子なのに、自覚が足りず悪戯ばかりしている。3年生になったら行動を改めなさい」、と。確かに私は悪戯をしては叱られ、教室の後方に何度も立たされていましたから。 このときから先生が言った「リーダー」という言葉を意識するようになりました。それ以降3年生から6年生まで一学期に学級委員、加えて卒業時は生徒会長として答辞を即興で述べ(生徒会長が担当するとは事前に聞いていなかった)、饗庭先生にも褒められました。もしも2年生修了の放課後に先生から説教されなかったら、リーダーなんて意識することなくずっと悪戯少年のままだったでしょうし、生徒会長にはなれなかったでしょう。 大人になってからこれまでまがりなりにもいろんな組織で取りまとめ役、リーダー役を演じてこれたのは、饗庭先生の説教が原点にあります。なので私を導いてくれた最初の恩師は小学1、2年の担任でした。仲良しの娘さんからは母上はご健在と聞いていますが、先生には元気で長生きして欲しいです。 三重県立桑名高等学校 つぎに、人生で最も迷惑をかけた恩師は桑名高校2年と3年の担任だった小林明男先生、恐らく先生の教員人生で最も手を焼いた悪ガキは私です。 高校1年生英語リーダーの授業はほかのクラス担任だった若い小林先生でした。教科書に登場する旧約聖書の巨人兵士「ゴリアテ」の発音記号は「グァライアス」、しかし英語教育が有名な名古屋の名門南山大学英文科出身のはずがなぜか「ゴリアテ」と発音する。英語リーダー担当教員は発音記号に忠実な読み方をすべき、だからついたあだ名はゴリアテでした。 1年生の授業中、ゴリアテは「キミら、こんな歌知ってるか?」と突然英語で歌いだしました。1960年代反戦フォークソングを世界に広めたPPM(ピーター、ポール&マリー)の「500マイル」。なぜゴリアテがこれを突然歌いだしたのか理由はわかりません。英語に自信があった私は下手くそな発音の英語教師をなめていましたが、ゴリアテの歌とPPMの話には素直に感動、下校時に街のレコードショップに寄り道してLPレコードを購入しました。高校3年間レコードがすり減るくらい聞いたのは「500マイル」「花はどこへ行った」「悲惨な戦争」「風に吹かれて」が入ったこのアルバムでした。 恩師に感化され初めて買ったPPMのレコード 2年生になるとクラス担任はゴリアテに。このとき私と学年主任(古典のF先生)との騒動が続きました。修学旅行前の中間試験のとき、F先生が私の席までやってきてこう言いました。 F:「キミ、(制服の)帽子はどうした?」 私:「今日は忘れました」(本当にこの日だけ忘れたんです) F:「なんだ、この上履きは?」 (私の上履きは学校の購買部で買ったピンクとグレーのギンガムチェック) 私:「購買部で売ってた」 F:「男子がこんな(ピンク)の履いて良いのか?」 私:「男子用、女子用と書いてなかった。文句あるなら購買部に言ってよ」 (返事に困ったF先生が去った後すぐゴリアテが血相変えて登場) G:「太田、F先生に謝って来い」 私:「なんでや。購買部で買ったスリッパに文句言ったのはFだぞ」 G:「とにかく謝って来い」 私:「謝る理由がない。俺は絶対に謝らない」 (ゴリアテは諦めて職員室に戻っていきました) 数日後の全校朝礼、学年主任は「本校で制帽をかぶらず通学していたのはたった1名だけ。みんなは規則を守っているので安心しました」と嫌味な発言。翌年大学受験直前の全国共通模擬テストで奇跡の好成績をとるまでF先生と私のバトルは続きました。大学受験時に文系私立大学志望の私は英語と世界史は満点狙い、古典を含む国語は0点でも合格できそうな採点配分の大学を受験しました。F先生が教える古典は一切勉強せず、大学受験は国語放棄での合格作戦でした。 上履き事件の後九州への修学旅行に。うざいことにF先生はじっと私のそばで私の行動を監視です。全15クラス(総勢750人の大移動)の担任の中でゴリアテは最年少教師だからでしょう、わがクラスの男子生徒だけは大阪港から別府港までの関西汽船の船中で部屋はなく、食堂を片して床にゴザを敷く船員以下の待遇でした。私たちは反発、提供された枕と毛布は瀬戸内海に放り投げました。 そして、別府港に到着した初日もちょっとした事件があって我々男子生徒はゴリアテから謹慎を宣告され、現地で私服を着てはならないとなりました。ゴリアテはほかの先輩教師の手前私たちに謹慎処分を発するしかなかったのでしょう。 当然私たちは抵抗します。わがクラスのバスガイドが「右手に見えますのは」と説明すれば、女子生徒も含めクラス全員が左方向を見ます。「合唱しましょう」とガイドに言われれば、誰も歌わない。最後にバスガイドが泣き出しました。観光バスが信号停車するたび、「私は桑名高校教諭の小林明男です。生徒に拉致されているので助けてください」と書いたビラを窓から多数ばらまきました。 その夜私たちの部屋に来て「太田、仲直りしようやないか」と言うので、「私服禁止の謹慎処分を解除してくれたら」とゴリアテに条件提示。地元警察にビラが届いて宿泊先に問い合わせが入ったと聞いたのは修学旅行の後、ゴリアテは「親、呼んで来い」でした。もちろん「親には関係ない」と拒否しました。 3年生になるとき、仲間で私だけが担任はゴリアテのまま。目を離すとかえって面倒と思ったのか、リーダーシップに少しは期待してくれたのかはわかりません。5月のゴールデンウイーク明け、私は名古屋の栄公園でおまわりさんに補導されました。タバコ所持です。三重県と愛知県、県警が違うと処分はどうなるかわからないと交番で脅され、翌日ゴリアテに「昨日タバコで補導された」と報告。「お前には期待してたんだがな。親に言うしかない」。私はオヤジが怖かったのでそれだけは勘弁してくれと頼みましたが、このときだけは聞き入れてもらえませんでした。 翌日から卒業するまでの数か月、朝の点呼のあと連日「太田、職員室に来い」。ゴリアテはうまそうにタバコを吸いながら私に煙をかけて「もう吸ってないやろな」。私は補導された日から卒業まで禁煙、でも疑ってたのでしょう、連日こうやってチェックされました。 高校時代はサッカーに夢中、ほとんど勉強をしたことがなかった私の成績は低レベル、とてもじゃないけど名だたる大学に行ける出来ではありません。が、10月にオヤジが病で倒れ、ことによると翌年浪人する余裕がなくなるかもしれないと思って突如ガリ勉くんに変身。それまでずっと最後方だった自分の席を先生の眼前の席に移しました。いつも授業中寝てるか悪戯していた私が急に勉強し始めたのですからクラスメイトは驚いていました。 大学入学試験の願書提出が迫ったとき、ゴリアテの個人面談がありました。 G:「太田、滑り止めを受験せんとあかんやないか」 私:「南山大学を2つも受験する」 G:「おまえの成績では南山は滑り止めにはならん」 私:「いまはちゃんと勉強してるから大丈夫」 (問題児が滑り止めに母校を選ぶなんて許せなかったでしょうね) G:「早稲田と明治を受験するなんて、東京6大学やぞ。無理っちゃうか」 私:「東京6大学は野球の話や、受験には関係ないわ」 名古屋の大学を卒業して三重県北部の高校に赴任、東京の大学事情なんてほとんど知らない田舎の高校教師の助言は無視でした。その頃、全国大学入試模擬テストでどういうわけか国語がなんと学校で1番、国語0点作戦の私ですからもちろんマグレ。が、職員室で遭遇した宿敵F先生は「太田くん、最近頑張ってるねえ」と。「ちょっと成績が上がるとこんなに態度変わるんか」と返してやりたかったけど、またまたゴリアテに迷惑かけそうなのでやめました。 同窓会で挨拶する小林明男先生 運良く南山大学の2学部と明治も合格、ゴリアテはすごく喜んでくれました。そして卒業から今日まで律儀に年賀状をくれます。25年ぶりに地元で同窓会があったとき、私が送った新著を会場に持参して教え子たちに「太田が本を書いたんや」。同級生たちは「先生、みんな持ってるよ」と大笑いでした。 私がサッカーゴール後方の校舎窓ガラスを割ったこともあったので、卒業後サッカーゴールと校舎の間には大きな金網が設置されました。生意気な私を取り囲んだ上級生を威嚇するため、ヤンキー丸出しの長ーい学ランを着た名古屋のちょいワル高校生(サッカー仲間ら)をわが校に呼んだこともあり、卒業後に他校生徒の出入りは全面禁止になったそうです。 軟式と硬式野球部にソフトボール部、陸上部があるため運動場が狭いからとサッカー部でなく(近隣高校に何度も勝利して弱くはないのに)同好会のままだったので校長先生に抗議したら、卒業後正式にサッカー部にしてくれました。こういうとき若いゴリアテは学年主任や校長からたびたび嫌味を言われていたでしょうね。 出来の悪い生徒ほどかわいいという説がありますが、強烈な印象だけは残っているはず。饗庭先生、小林先生だけでなく、小中高校と私は多くの先生方に守られ育ちました。本当にありがたいことです。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2024.02.03 13:54:59
[太田伸之] カテゴリの最新記事
|