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売り場に学ぼう by 太田伸之

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Nobuyuki Ota

Nobuyuki Ota

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2024.07.09
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大学を卒業して就職せずすぐに渡米、ずっとフリーランスのライターとしてニューヨークのデザイナー周辺を取材してきた私は日本の役所や役人とは全く無縁、仕事で顔を合わすことはありませんでした。米国商務省の「BUY AMERICAN」(米国製品を世界に売り込む事業)のお手伝いをしていた関係で米国商務省繊維部門マネージャーと数回面談したことはありましたが。



帰国してCFD(東京ファッションデザイナー協議会)設立に奔走、その事務局責任者になった直後に当時婦人服専門店チェーン最大手鈴屋の鈴木義雄社長の紹介でCFD事務局を訪ねてきた通商産業省繊維製品課渡辺光男課長(みつおの字が間違っているかもしれません)が初めて出会った中央官庁官僚。課長の要請でファッション関係の検討委員会に参加、そこから繊維製品課長やその上司である生活産業局長と面談するようになりました。

ファッション繊維業界各団体の責任者らが名を連ねる検討委員会に初参加したとき、弱冠32歳でなおかつ帰国したばかりで日本の業界事情をよく知らない私が発言を許されたのは会議の最後の最後。それまでほかの委員の面白くもなんともない発言に疑問を感じながら、私は2時間じっと我慢して拝聴するしかありません。

会議後渡辺課長に直談判、「発言の順番は年齢順なのでしょうか」と。委員会の構成メンバーに30代はおろか40代も見当たらず、ほとんどが50代後半か60代の協会理事長や組合長さんばかり、若輩者は最後の最後というのがどうにも我慢できません。座長が指名する順番ではなく、年齢に関係なく挙手制にしてもらえませんか、と生意気なことを申し上げました。そして次回からは挙手制、私にも早く順番が回ってくるようになりました。

その次の次の課長が林康夫さん、のちに中小企業庁長官やJETRO理事長をされた方です。林課長はよくCFD事務局に足を運び、真摯に意見を聞いてくれました。CFDは役所の認可団体でもないみなし法人でしたが、どういうわけか何度も面談、「局長がデザイナー側の声をヒアリングする機会を設けましょう」と岡松壮三郎局長(のちの通商産業審議官、タフネゴシエイターとして日米構造協議で米国側と渡り合ったことで有名)とデザイナーの意見交換会までセットしてくれました。以来いまも年賀状のやり取りをさせてもらっています。


林康夫さん

CFDとほぼ同時期に東京商工会議所主導で設立された東京ファッション協会事務局メンバーから「通産省課長がわざわざ訪ねていくなんて考えられない。我々は役所に出向く、あんたたちは特別扱いなんだよ」とよくからかわれたものです。

この頃繊維製品課は直近の「繊維ビジョン」(わが国繊維産業の方向性を策定した白書のようなもの)に盛られた「ワールド・ファッション・フェア」という大型イベント開催と「ファッション・コミュニティー・センター」という発信拠点を全国に建設する事業の具体化を進めていました。このとき大型イベントや拠点建設よりも人材育成を最優先すべきと私は発言、その流れでCFD事務局でボランティアの塾「月曜会」をスタートすることになったのです。

月曜会の様子を見に来てくれた同課員らに当時区役所移転を計画していた墨田区商工部長を紹介され、私は「立派な仏壇を建設するよりもどんな仏様をそこに入れるかが重要でしょ、人材育成を柱にした施設を墨田区につくりませんか」と進言。そして墨田区にファッション産業人材育成戦略会議が発足、繊研新聞社編集局長だった松尾武幸さんを座長に議論開始、まとまったところで松屋の山中会長に理事長をお願いしてさらに議論を重ねました。

言い出した自分が座長にならなかったのは、年齢が若過ぎるから。年功序列社会で若輩が座長では角が立つ、ここは恩師でもある松尾さんにお願いすれば丸く収まると墨田区部長に推薦しました。松尾さんとコルクルーム代表安達市三さんと三人で頻繁に集まり、カリキュラムの構想を練りました。

しかし、不思議なことに墨田区戦略会議は解散、議論は通産省繊維製品課に移されて議論再開。このとき墨田区戦略会議メンバーで委員継続を頼まれたのは私一人、区役所レベルの案を国は採用しないという意思表示なんだろうと委員一同受け止めました。

そこで、林課長の次の繊維製品課長に面会を申し込み、墨田区が考えた理事長案は却下しないで欲しい、でなければ自分は委員を引き受けないと長時間交渉、山中さんは理事長含みで委員になりました。理事長就任の際「俺のハシゴを外すなよ」と言われ、山中理事長が亡くなるまで私はフルに新設IFIビジネススクールで指導に当たりました。


IFIビジネススクール夜間コース終了式、前列中央が山中理事長

その後しばらくの間私は役所と完全に無縁に。民間企業2社を掛け持ちで超多忙、ビジネススクールの指導も難しくなり、誰が繊維製品課長や生活産業局長に就任したのか全く興味ありませんでした。

それから4年後、ビジネススクール立ち上げでお世話になった業界人から社内中堅幹部研修の講師を頼まれ、そこでもう一人の講師だった繊維課(それまでの繊維製品課)山本健介課長と名刺交換、気がつけば山本さんに乗せられて中小繊維事業者自立支援事業の面接官や内閣官房のコンテンツ事業戦略会議(のちのクールジャパン事業)委員に。山本さんの「お手間取れせませんから」は真っ赤なウソ、目が痛くなるほど大量の申請書類を読むことになり、長時間事業者の面接に立ち会い、最後はコンテンツ会議で4年も委員をすることになりました。これがのちに官民投資ファンド株式会社クールジャパン機構に繋がります。

ちょうどコンテンツ戦略会議の議論に加わった頃、繊維課長に宗像直子さんが就任、さっそく会食に誘われました。内閣官房コンテンツ戦略会議でどんな議論をしているのか、そして繊維課に期待することは何かのヒアリング。このとき数多い繊維関連の協会、団体の集約とCFDが担ってきた東京コレクションへの支援の話をしました。宗像さんはすぐに東京コレクションへの支援と新しい受け皿の設立に奔走、日本ファッションウイーク推進機構(馬場彰理事長・オンワード樫山会長)がスタート。この時点で私はCFDに代わる新たなファッションウイークには全くノータッチ、完全な部外者でした。


宗像直子さん

私がCFDで10年、後任議長久田直子さんの下でも10年CFD自主運営東京コレクションは続きましたが、資金的にそろそろ国の補助や大手企業の援助がなければコレクション運営は継続できそうにない状況でした。宗像さんの尽力で新たな組織が2005年に生まれ、東京コレクションは官民事業のファッションウイーク推進機構が主催者として運営するようになったのです。宗像さんのアパレルやテキスタイル業界への根回しがあったからこそ今日のRakuten Fashion Week Tokyoがあります。


現在はRakuten Fashion Week Tokyoに


 FETICO@Rakuten Fashion Week Tokyo

国が主導する事業ですから特定団体や特定のデザイナーだけを支援するわけにはいきません。CFD側からは会員デザイナーを優遇して欲しいという要望がありましたが、国の予算(当初3年間は国から補助金が出る約束)である以上CFD会員デザイナーだけ支援するわけにはいかない。結構ゴタゴタしました。ファッションウイーク推進機構実行委員長だったTSI会長三宅正彦さんから頼まれ、私は2006年10月第3回からコレクション担当理事を引き受け、再び東京コレクションに協力することになったのです。

デザイナー有志と共に1985年に立ち上げた東京コレクション、これを新組織で大手アパレルの会長たちが一生懸命世話している様を見て自分が部外者のままでは申し訳ない、それが三宅さんの要請を引き受けた理由です。当然報酬ゼロ、推進機構会費は自腹、こうして18年間ファッションウイークをお手伝いし、若手デザイナー育成に力を注いできました。

2011年私が松屋に復帰した直後に東北大震災、原発事故で電力不足、銀座の街は夜真っ暗に。このとき銀座の競合店三越銀座と共に銀座を元気にするファッションイベントを仕掛け、両店共同の銀座ファッションウイーク、そして歩行者天国での屋外ファッションイベントGINZA RUNWAYを企画。でも初の歩行者天国でのファッションショーは警視庁からなかなか許可が下りません。

このとき警視庁に何度も掛け合ってくれ、最後は経済産業大臣の協力を引き出してくれたのが経産省に新設された生活文化創造産業課(クールジャパン)の渡辺哲也課長。松屋の販促課長と共に渡辺さんは警視庁に出向き、六法全書を見せながら「どこに歩行者天国でイベントをやってはいけないと書いてあるんですか」と交渉してくれ、それでも許可が下りないとなると経産大臣に相談して警視庁の許可を取り付けてくれました。


渡辺哲也さん

震災から1年後の2012年3月渡辺課長と課員たちの協力で歩行者天国初のファッションショーを開催。私は課長の計らいで経産大臣に会い「被災地のちびっ子と一緒に大臣もモデルとして参加しませんか」と申し上げ、フィナーレに東北被災地のちびっ子と大臣が手を繋いでランウェイを歩くショーが実現。その日の夕方全テレビ局がニュースで取り上げ、翌日全ての全国紙とジャパンタイムズが写真付きで1面掲載、大きな話題になりました。私自身もたくさん取材され、このことがのちの官民ファンド社長就任に関係します。


歩行者天国初のファッションショーGINZA RUNWAY

コンテンツ事業戦略会議の一員として4年間議論した政策は民主党政権下でも議論が継続され、自民党に政権交代した2013年国会でクールジャパン戦略を推進するため官民ファンド設立が可決されました。そのときは委員でもなんでもないので国会で新会社設立が決定とは全く知りませんでした。そして8月米国西海岸市場視察に出かけたちょうどその日、経産省商務情報政策局富田健介局長らが松屋の秋田正樹社長を訪ね、新設するクールジャパン機構社長に私を指名したいとびっくり仰天の話があったのです。

富田局長は私をお役所の委員に引き摺り込んだ山本健介さんの同期、何人かの社長候補者に断られたのかもしれません、私は最後の頼みの綱だったのでしょう。松屋に復帰して楽しく仕事をしている上に投資の世界には全く興味なく、正直「なんで俺なの」でした。秋田社長は総理大臣の安倍さんとは祖父、父と三代続きの深い関係、秋田社長に頼みやすかったのかな。帰国して秋田社長と相談、会社として正式に引き受けることになりました。


クールジャパン機構開所式のミナペルホネン

2013年11月に発足したクールジャパン機構(正式には株式会社海外需要開拓支援機構)には経産省と財務省からそれぞれ数名出向、社長の私を補佐してくれました。5年間社長を務めましたが、任期の最後に経産省から出向してきた若い役人がユニークな熱血漢でした。ある事件があってその解決を先輩から引き継いだ新任はある日突然坊主頭で出社、どうしたのと訊ねたら「先方に誠意を見せるため頭丸めて交渉に行きました」。着任する前の事件、彼に責任はありませんが、自らの判断で坊主頭になって当事者を訪ねたのです。なかなかできることではありません。

私が正式に社長退任を発表した夜、私は彼だけ連れて食事に出かけました。部下を坊主頭にさせてしまった上司として最後に美味しいものをご馳走せねばと思ったから。赤坂の寿司店から西麻布の居酒屋をハシゴ、たまたま2軒目に居合わせた前ヨウジヤマモト社長大塚昌平さんらと一緒にかなり盃が進みました。その佐伯徳彦さんは西海岸での勤務も経験し、今回の人事異動でなんとクールジャパン戦略及びファッション政策を所管する課長に就任。この熱血漢には課長在任中にクールジャパン関連事業が世界市場でしっかり旗を立てられるよう頑張って欲しいです。


佐伯徳彦さん

フリーランスで役所や役人には無縁だった私でしたが、気がつけば熱い官僚たちと共にファッションでもクールジャパンでも仕事する立場になっていました。クリエーションが重要な柔らか産業に従事しているのに不思議なもんです。





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Last updated  2024.07.11 14:05:47
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