交友録2 日本贔屓の米国デザイナー
5月30日、SNSで繋がっている米国ファッションデザイナーのジェフリー・バンクス氏が「HAPPY HEAVENLY BIRTHDAY, NANCY CESARANI !!」とアップしていました。NANCYはもう10年余前に癌で亡くなったサル・セザラーニ夫人のこと。サルが創業期のラルフローレンでデザイナーとして働いていた頃ジェフリーはサルのアシスタント、両者は約半世紀の長い付き合いだそうです。下の写真は 、ジェフリー・バンクス氏のSNSからの引用です。前列左側がラルフ・ローレン氏、その後方のメガネの男性がサル、すぐ隣の女性がナンシー夫人、そしてその右がジェフリー、1970年代中頃に撮影されたものでしょう。 私は大学を卒業してニューヨークに渡り、ファッションジャーナリストとして米国デザイナーやニューヨークコレクションを取材、多くのデザイナーや経営者をインタビューしました。その中で米国ファッション業界の事情やその仕組みを丁寧に優しく教えてくれたのがセザラーニ夫妻、私にとってはメンターそのものです。ロングアイランド東端の避暑地イーストハンプトンにある彼らの別荘やマジソンアベニュー80丁目のアパートに度々招かれ、8年間のニューヨーク時代ディナーを共にした回数が最も多いのはセザラー二夫妻でした。ラルフ・ローレンの後がサル・セザラーニサル・セザラーニで最も記憶に残っていることは、1980年ニューヨーク州レイクプラシッドで開催された冬季オリンピック公式ユニホームプロジェクト。1977年オニツカタイガーら3社が合併したばかりの新生アシックスは冬季五輪オフィシャルサプライヤーのコンペに参加しました。協賛企業としての多額の寄付に加え、ユニホーム制作費はかなりの負担、多くの米国スポーツ用品メーカーは二の足を踏んだのでしょう、アシックスが選ばれました。アシックスは誕生したばかり、まだ世界市場での知名度は低く、この冬季オリンピックでブランド認知度を一気に上げる計画。当時パリコレで大活躍中の日本人デザイナーを起用し、メダル授与式や開会式のコンパニオン、聖火ランナーや大会関係者のカッコイイ公式ユニホームを提供して注目を集めるつもりでした。ところが、ファッションビジネスが基幹産業の1つニューヨーク州で開催されるオリンピックなのに日本企業が公式ユニホームとはなにごとか、と米国の一部メディアがネガティブな報道をしたため、アシックスは日本人デザイナー起用をあきらめ米国デザイナーに委託するしか批判をかわす方法はないと考えました。そして、ニューヨークの私に米国デザイナー推薦の依頼が届いたのです。アシックスの希望は、オリンピックプロジェクトを名誉ある仕事と意気に感じてくれそうな若手デザイナー、大御所デザイナーを起用するつもりはありません。私は全くタイプの異なる4人の若手デザイナーをリストアップ、それぞれのオフィスに出向いてプロジェクトの説明をして歩きました。この中からアシックスが最終的に選んだのは、アメリカントラディショナルを標榜するデザイナーのサル・セザラーニでした。レイクプラシッドはニューヨーク州とは言ってもカナダ寄りの山奥にある田舎町、アヴァンギャルド性の強いデザインではオリンピック運営委員会を組織する保守的地域住民の賛同を得にくいと判断したのでしょう。加えて、サル自身の気さくな人柄、日本贔屓も選ばれた大きな要因でした。サルはアシックスの期待以上に協力的、精力的に動きました。素材確認のために来日、防寒試験のために欧米の山岳リゾート地を何度も訪ね、レイクプラシッド住民へのデザイン説明も本人自ら行う。私もレイクプラシッドでのプレゼンに同行しましたが、田舎の商店街のおじさんが「あんたのデザインは古くないか」と発言するのに対し、怒る表情を見せず目を白黒させながらデザインの意図を丁寧に説明する。他のデザイナーなら口論になっていたかもしれません。サルは本業そっちのけでオリンピックプロジェクトに没頭、東奔西走の活躍でした。セザラーニ社を訪ねたとき、彼のアシスタントは私に「あなたが変なプロジェクトを持ち込んだおかげで サルはほとんどオフィスにいないじゃないか」と文句を言わましたが、確かにユニホームのことで海外出張が多かったようです。公式ユニフォーム展示の前でセザラーニファミリーそして、公式ユニホーム発表記者会見が日本で行われた数日後、セザラーニ社はなんとニューヨークでチャプター・イレブン(連邦破産法)を申請、つまり倒産してしまいました。彼のアシスタントらが心配していたことが現実のものとなってしまい、話を持ち込んだ人間として申し訳なく思いました。しかし、そんなことでめげないのがサルとナンシー。倒産後の夏休みにイーストハンプトンの別荘に行ったら、サルは交渉中のアパレルメーカーの新規コレクションのためプールサイドでスケッチを描き、生地スワッチを重ねながら私にコレクションの意図を解説する。陽気なイタリア系だからなのか、それとも米国人は概してチャプター・イレブンに神経質ではないのかはわかりませんが、とにかく二人の表情は意外にもとても明るかった。もうひとつ、セザラーニで思い出すことがあります。日本の大手コンバーターの市田の子会社ハナムラがセザラーニとライセンス契約を締結、その直後サルと彼の弁護士から呼び出されました。セザラーニの名を日本で商標登録しようとしたところ、すでに日本では登録済み、しかも登録者はS社でした。「日本の商標登録のルールはどうなっているんだ」と弁護士に質問されました。ラルフローレンが日本に上陸した1970年代中頃、日本のメンズ業界ではサルがラルフ・ローレン氏の影武者デザイナーだったという噂が流れました。おそらく日本でのラルフローレン事業を守るため、将来競合することになるかもしれないセザラーニの名を登録してしまったのでしょう。幸いサルの弁護士はラルフローレンの弁護士でもあり、その後日本での商標登録問題は解消されたようです。余談ですが、その数年後にサルと新たに組んだ米国紳士服メーカーが裁判で争った際、この弁護士の仲介でラルフ・ローレン本人が証人としてサルを擁護する証言したと聞いています。私は東京コレクションに長く関わっていますが、デビューを計画する新人デザイナーから相談されると、「まず商標登録を済ませてください」とアドバイスすることにしています。サルの商標登録事件に遭遇した経験から、ショーや展示会開催準備よりも先に商標登録を推奨してきました。数年前ニューヨーク出張したとき、久しぶりにサルと会食しました。ニューヨークコレクションの参加デザイナーの多くを輩出しているパーソンズ・デザイン学校で、FIT(ニューヨーク州立ファッション工科大学)出身の彼は後進の指導に当たっていました。ブランドビジネスを卒業しても学閥を超えて後進指導で業界に恩返しする、日本もそんな事例をたくさん作れたら良いですね。 参照:https://en.wikipedia.org/wiki/Salvatore_J._Cesarani