ノーベル賞と学問
IT Plusからの記事です。手放しで喜べないノーベル賞ラッシュ 日本に「狭く深く」の軽視はないか 理科系研究者のノーベル賞ラッシュにわいた先週の日本だが、日本人の受賞者の数をめぐり、国内外の評価が分かれた。日本の多くの新聞は「ノーベル物理学賞に日本人3氏」と1面を飾ったが、世界の有力紙は「米国人が1人、日本人が2人」と報道した。■日本人受賞者は4人か2人か 物理学賞の選考にあたるスウェーデン王立科学アカデミーの発表でも、日本国籍は2人とされている。日本国籍の益川敏英氏、小林誠氏は、留学経験のない「純国産コンビ」(毎日新聞)だが、米国籍の南部陽一郎氏は、物理学の研究を続けるために米国に帰化し、シカゴ大学で半世紀に渡り研究に打ち込んで、現在はシカゴ大学名誉教授である。 一方、ノーベル化学賞を受賞した下村脩氏は、日本国籍だがプリンストン大、ウッズホール海洋生物学研究所等で研究生活を送り、現在はボストン大名誉教授である。南部氏、下村氏ともに、自身の研究のために米国に拠点を移し、米国での研究成果が今回の受賞につながった。 今回の日本人受賞者は、日本の報道によれば4人、日本国籍を基準とすれば3人。しかし、本来は、受賞の対象となった研究業績がどこで生まれたかを基準とすべきであり、そうであれば「日本」の受賞者は2人となる。逆に、外国人が国内の研究拠点での業績で受賞すれば、日本の受賞にカウントすべきだろう。 このような国内外の報道をきっかけに、「頭脳流出」に対する問題意識が高まり、よりよい研究環境を求めて国境を越える研究者を念頭に、世界の頭脳が日本に集まる「頭脳循環」の実現のために魅力的な研究環境を整えるべきとの議論が高まりつつある。筆者もかねてから指摘してきたが(2001年執筆のコラム参照 )、日本人が海外で活躍することよりも、日本という「場」が生み出す価値を高めるための「GDP的発想」がより重要であるはずだ。■競争力に不安抱える日本の大学 しかし、世界の先端研究者を惹きつけるべき大学をみると、日本の競争力は実に心許ない。国際的な高等教育情報機関であるイギリスのQS(Quacquarelli Symonds)は、2008年版「世界大学ランキング」を10月9日に発表した。研究者による評価、論文の引用数など研究力を中心に、教育力、企業からの評価、留学生比率なども加えたうえでの総合評価だ。 1位は米ハーバード、2位は米エール、3位は英ケンブリッジ、4位は英オックスフォードで、15位までは米英が独占している。20位までに米国が13校、英国が4校入るなか、日本からは東京大の19位が最高で、100位以内でも京都大(25位)、大阪大(44位)、東京工業大(61位)の計4校にとどまった。 本来はこの種のランキングは、総合評価ではなく専門分野ごとに評価すべきだが、そのような評価を行えば、理系では日本の大学の評価がより高く、文系ではより低くなる傾向が予想される。筆者の専門である経済学であれば、ノーベル賞受賞者数の実績と同様、米国のランキング独占がますます強まり、受賞者がゼロの日本は目を覆いたくなる結果となるだろう。 筆者は日米双方の大学院に在籍したが、教員・学生双方の観点から、日本の大学には改善の余地が多いと感じている。大学改革のための処方箋リストは別の機会にゆずるとして、日米の大きな相違は雇用の仕組みである。 米国には教授としての終身雇用に向けた厳しい競争システム(tenure制度)があり、その間に査読論文の質と量、教育への貢献等さまざまな評価が加えられるが、日本ではそのような仕組みが広がらない。いったん採用されればやがては教授に昇進するのが原則だ。国内競争がうまく機能しなければ、国外との競争に打ち勝つことは難しいだろう。 専門課程のあり方にも違和感がある。最近は、大学・大学院での新設学科・研究科が目白押しのようだが、学際、融合、超領域等の名前を冠し、専攻する学問領域が的確に想像しにくいものが多い。筆者の関係する政策分野でも、「公共政策」、「総合政策」といった政策系の学部・大学院が広がっている。 しかし、誤解を恐れずに言えば、「政策」は学問ではない。利害関係者との調整や国民への説明等を要する優れて実践的な作業である。この「政策」がどうあるべきかを分析するのが政策科学とも言うべき学問であって、その性質上、理系・文系にまたがる複合領域となる。 このような政策系の学生と接すると、ある種の傾向を感じる。例えば、専攻を聞くと、「環境が専門です」などと言う。筆者が考えるに、「環境」は学問の対象であって、それ自体が学問ではない。理学、工学、医学、法学、経済学など、様々な専門的アプローチがあるはずだ。しかし、そこまで尋ねると満足な答えはなかなか返ってこない。むしろ、クールビズやヒートアイランド、洞爺湖サミットなど、ジャーナリスティックな意味で関心を呼ぶ政策の話題で饒舌になる。■専門知識の追求なくして進歩なし 専門家が集う学会にも同様の傾向がある。境界領域を標榜し、響きはよいが学問的基礎のあいまいな名称の学会が次々に発足し、日本の学会は乱立気味だ。主導権争い等により、同じ専門領域に2つも3つも学会が存在するケースさえある。その一方で、国際的に通用する質を維持した査読付の学会誌を備えた学会は数少ない。 自省も込めて言えば、基礎の弱いうちからいきなり境界領域に飛び込んで成果を挙げるのは無理だ。水は最初はチョロチョロ流れて細く地面を刻み、水量が増してくるにつれて深さを増し、やがて勢いを得て幅を広げて川となる。最初から幅の広い地面を覆おうとすれば水が浅くなり、時には干上がってしまうだろう。 実感するのは、自分の軸となる学問的な分析ツールが確立してこそ、境界領域という他流試合にも臨めるということだ。自分と相性の良い「狭い」学問領域をできるだけ早く選択し「深く」掘ることで自然と水量が溢れ、幅を広げて境界を侵食していく。伝統的な学問領域でアイデンティティーを確立するのは古臭く、頭が固くなり、最先端の学際領域に対応できなくなるというのは全くの誤解だ。創造は知識の企図しない融合であり、先人の知識を消化しなければ何も生まれない。 昨今の風潮で憂慮するのは、理解に努力を要する専門知識がないがしろにされがちな点だ。組織内では調整に長けたジェネラリストが重用され、入門書が得意で視聴者に簡単に面白く伝えられる学者が引っ張りだこになる。政治家も得意分野をつくれば族議員と批判され、小選挙区制で年金、食品、税制、道路から拉致問題まで何でもカバーしなければならない。 討論番組や記者会見などでも、勉強不足の質問者やコメンテーターが、攻撃は最大の防御とばかりに専門家の話を遮って、まるでクイズのように「白なのか、黒なのか」と迫る光景をよく目にする。「分かりにくい」と一刀両断して思考停止する前に、もう少し辛抱強く専門家の話を聞き、理解しようと努力できないものだろうか。 新しい理論や技術を生み出し社会を進歩させるのは専門家の役割だ。政策に新たな潮流や手法をもたらすのも、「薄く広く」の評論ではなく「狭く深く」の専門知識である。ノーベル賞ラッシュで思い出した世界級の専門家に対する畏敬の念を、もう少し身の回りの「本物」の専門家にも振り向け、じっくり耳を傾けてもいいのではないだろうか。【本稿は筆者の個人的な見解であり、所属する組織を代表するものではありません。】-筆者紹介-今川 拓郎(いまがわ たくお)総務省 情報通信国際戦略局 情報通信経済室長略歴 1990年東京大学大学院修了、同年郵政省入省。97年米ハーバード大学経済学博士。大阪大学大学院助教授、総務省総合通信基盤局市場評価企画官等を経て現職。東京大学公共政策大学院・早稲田大学政経学部等の非常勤講師を兼務。専門は、情報経済学、産業組織論、都市経済学等。“Economic Analysis of Telecommunications,Technology, and Cities in Japan” (Taga Press)、「高度情報化社会のガバナンス」(NTT出版、共著)、「デフレ不況の実証分析―日本経済の停滞と再生」(東洋経済新報社、共著)等、著書・論文多数。静岡県出身。-------------------------思わずうなってしまいました。確かに研究の潮流が社会が求める学問のあり方に引きずられているように感じます。基礎的学問に対する評価が低いです。今後役に立つかどうかわからない研究に対して,社会の評価は低いです。環境や経済,科学技術や医学の進展にすぐに役立てられる応用的研究に対する社会の評価は高くなります。科研費も後者に配分される割合が大きくなってきているのではないでしょうか。政策は基礎的な学問による分析や考察があってはじめてうちたてられるものという意見には賛成です。一言で説明がつく学問こそが評価されるべき学問なのでしょうか。すぐに世の中に立たないような学者の個人的趣味とも言えなくもない研究は,学問としての評価は低いのでしょうか。また,政策論や学際的な研究は,対象となる問題ごとに持ち込まれるべき学問成果が違ってくるため,その成果のどれを持ち込むべきかを判断するための基礎的知識(教養)がかなり必要になりそうです。こうした研究を進めるためには,相当量の基礎的な学問を身につけておかなければならないように思います。ある事象をある一つの視点から語られることが多いように思います。多角的な視点で物事を複眼的にとらえられる訓練をする機会をもっと増やしてもいいと思います。