駒込追分の歩み
今度の講義資料で使うために下調べしたら,おもしろいことが分かってきたので記しておきます。文京区図書館でゼンリンの住宅地図を見ながら過去の歴史を少し紐解きます。東京メトロ南北線「東大前駅」付近にある本郷追分の歴史です。図の右下にある交差点が本郷追分です。ここは中山道と岩槻街道(本郷通り)の分岐点で分かれるところという意味で追分です。まっすぐ進むのが岩槻街道(本郷通り)で左に曲がるのが中山道です。江戸時代,岩槻街道は将軍が徳川家康を祀る日光東照宮へ参拝するために使ったため,日光御成街道と呼ばれていたそうで,幸手宿で日光街道と合流します。追分は本郷ではなく旧駒込村に属したために駒込追分と呼ばれていたそうです。江戸時代には今の東大農学部前に一里塚がありました。中山道分間延絵図(ぶんけんのぶえず)(駒込追分周辺)(1800年)日本橋を起点に始まった中山道はこの本郷追分で一里(約4km)になりました。一里塚とは,江戸幕府が指令を出して日本橋を起点として全国の街道に築かれたものです。目印として榎(えのき)などの樹木が一里ごとに植えられました。今の東大本郷キャンパスは,加賀中納言前田家でした。他にも通り沿いには水戸家,本多家,阿部家など親藩譜代などの武家屋敷が並んでいました。本郷追分の角には今もある高崎屋酒店があります。高崎屋ホームページによると,創業は初代の高崎屋長右衛門の没年が安永7年(1778)である事から,宝暦年間(1751~64)と考えられます,とあります。大店(おおだな)だったそうです。中山道の街道筋には,こうした商家が並んでいて,商業活動も次第に活発に行われるようになりました。江戸の絵図には,築山までしてぎわっている様子が描かれています。1841年の本郷追分本郷追分から北側を眺めた定点観測では,高崎屋酒店は今でも残っています。ふるさと歴史館のホームページには周辺の定点観測があります。高崎屋酒店は酒・醤油を商った老舗で,中期にも野田や銚子の醤油としてのブランド価値が認められずに江戸には「下らない」ものだったそうです。そこで,高崎屋は江戸で一番とのブランドで売り出すことによって絵図のごとく隆盛したそうです。明治後期には都電(市電)が東京各地に伸びますが,市電が市電の追分の北まで延びたのは大正4年(1915)のことでした。1971年,都内の交通事情の変化により都電が廃止され,バス路線となります。本郷追分から第六中学校の辺り(本郷通りの両側)は1965年まで駒込追分町と呼ばれていました。その後,この周辺は,「向丘」の町名になります。上野の忍ヶ岡あたりから不忍池を隔て向こう側に開ける台地ということでこの名がついたようです。駒込東片町、駒込肴町、駒込蓬莱町、駒込追分町、駒込浅嘉町などを合併しています。本郷追分の少し北側,本郷通り沿いに「セブンイレブン文京向丘一丁目店」があります。過去の住宅地図からここが過去どのような土地利用だったのかを追いました。1957年松林タイピスト学院中沢ネオンドライヴクラブ佐藤製作所壱橋肉屋1970年松林タイピスト学院徐細目壱橋肉店1980年松林タイプ社平田産業河合電気1990年松林タイプ社(いけばな教室 圭雪会)ゲームイン本郷細貝河合電気2000年松林タイプ社(いけばな教室 圭雪会)ゲームイン本郷細貝2008年圭雪会セブンイレブン文京向丘一丁目店とパパママストアのような商店が,店舗面積を広げつつコンビニになっていく様子が分かりました。街の歴史を紐解けば,地域の変貌が分かります。特に流通業は地域の変化を映す鏡です。今後も大手チェーンを中心にして地域の顔を変えていくのでしょう。こうした地域の変化は今の小中学生にはもちろん分かるはずもありません。江戸の町割りや一部の商店は当時の面影を残しつつ,新たな流通のうごきがその基盤の上に折り重なって地域を変化させていくことを伝わればと思っています。