撫養城
撫養城へ行きました。山のてっぺんに天守閣がよく見えました。妙見山公園まで車であがります。ちょっと上ると妙見神社が見えます。その向かいが撫養城です。館内は無料で階段を最上階までのぼると,きれいに見渡せます。撫養街道方面海側。街道沿いにはちらほらとかつての面影を残す建物があります。お城まで一直線さらに先の饅頭屋で一休みうすかわや栗饅頭などをいただきました。店内に阿波街道の紹介記事がありました。大宝元年(701年)に大宝律令が制定された頃、畿内の大和国・山背国・河内国・摂津国と、七道と呼ばれる東海道・東山道・北陸道・山陰道・山陽道・南海道・西海道の全国の主要幹線道路が整備された。そのうち、紀伊・阿波・讃岐・伊予・土佐国に設けられたのが南海道で、その阿波国の一部が撫養街道の原点となった。奈良時代に畿内からの船は、淡路の福良から牟屋に着いており、当時の阿波(四国)の玄関は現在の鳴門市撫養町木津付近であった。室町時代の『兵庫北関入船納帳』(瀬戸内海沿岸地船舶の積載物資の記録)には、1年間の瀬戸内各港から、さまざまな荷を積んで兵庫港に出入りした船の数が書かれ、その総数は2,400艘にも及んでいた。その内、撫養から藍・木材・塩など大量の物産が畿内へと流れていた。また、中世室町の商業の発達と座を記した日本の座の分布を見ると、「舟座」は阿波の撫養(鳴門市)に置かれていた。撫養は古代より、阿波国の海運の窓口、玄関港の役割を果たしていた。材木流通で土佐との関係が深い撫養浦です。