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最近、お金に関する本がよく売れています。実際、それらの本は筋の通った思想を伝えており多くの人が考える「お金とはなんぞや」という疑問に答えてくれているようです。
しかし、それ以前の「豊かさとはなんぞや」という疑問にはあまり答えがありません。 豊かさとは一人一人の趣味や嗜好によるものが多いからでしょう。 では豊かさとは何かといいますと、これははっきり言って「文化としての必要な無駄を享受できている状態」ではないでしょうか? 実際、この世界には信じられないほど様々な商品があり、それは本来、最低限生きていくために必要な生活必需品からは遥かにかけ離れた豊かさです。 言ってしまえば、ほとんどの商品は生きていくのにかならずしも必要のないものばかりです。 だとすれば、これら不必要品を自分が所有しているかどうか、所有するだけの収入があるかについて思い悩むのは馬鹿げていると考える人がいてもおかしくありません。 しかし、それらが得られないことで苦しんだり、モノに執着したり、持っている人への嫉妬さえ無くせばモノを持つことで得られる豊かさは素晴らしいものです。 今の世の中では環境にも配慮する必要がありますが、本来、自然は人間がその豊かな恵みを少しばかり拝借しても平然としていられるだけの豊かさを持っていたはずです。 豊かさの基本は文化事業なのですね。通常、読書や芸術や勉強とみなされることは通俗文化に比べ、高尚なことだとされますが、本来高度な精神文化も衣食足りて礼節を知り得る状態でなければ享受できないものです。 だとすれば文化としての無駄は人間の礼節とも密接に結びついているわけで、豊かさの一部には常に礼節が関わっています。 日本人は物質的にはまだまだ恵まれているといえます。 しかし、豊かなモノを得るために働き、モノを得ること自体が目的になってしまった世界では、もはやモノの消費は豊かさを表す記号であって、どこそこのブランドを持っていてもその真価をブランド価値とは別のところで評価出来なければ、ただ「自分は○○というブランドを持っている」という自己認識のためのツールにすぎないのですが、実際持っていること自体で自分の価値が決まるのでしょうか? 精神科医の香山リカ氏の本にこういう患者さんが出てきます。 「自分はいい大学も出たし、いい会社にも入ったし、車も買ったし、いい奥さんと結婚して子供もいるし、家も買ったし、もう人生の大きい買い物はすべて済ませてしまったからやりたいことがない。死にたい」という男性です。 この男性はかなり重要なことを言っています。 この人は人生を「買い物」だと思っているのです。 だから主な買い物をもう済ませてしまったらもう、買うものがない、と、こう考えているようです。 しかも奥さんと子供も自分が手に入れるべき商品だったので、平気で「死にたい」と言えるようです。 勿論、医学的な意味での鬱であれば誰であれ死にたくなることはあります。 しかし、どうもこの男性は鬱っぽいところはあっても人生とは何かに関する捉え方そのものが「買い物」になってしまっているので、結局得られるものに関してしか人生を認識していないようです。 しかもこういう価値観はさほど珍しくないのが今の日本なのかもしれません。 豊かであるためには心が豊かでなければならないというのは何もスピリチュアルでなければならないということでもなく、もっと文化的に生きたいという気持ちが必要です。 それはモノを買い集めることではありません。 文化が作り出したモノはお金で買えますが、お金だけで文化的であることは出来ないのですから。 真に文化的な人は割と、旅行やコンサートや食べることなど形に残らないものにお金を使う傾向があるようです。 お金を払うからには物質として手元に残るものしか欲しくない、というのではあまりにも貧しいのではないでしょうか? 豊かさとは「経験から得る喜び」に他ならないと思います。 実際、今いちどスピリチュアルな考えに立ち返って考えれば私たちの魂がこの地上に生まれてきた目的は物質を介在とした経験という喜びを学ぶことなのだから。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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