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によって人生は天と地ほどの開きが出てきます。
この話はかなり哲学的になりそうなのですが、なるべくわかりやすく書いていきたいと思います。 人は往々にして嫌なことを現実と表現したがります。 しかもそれは自分にとって嫌なことであり、他の人にとってはそれほどのことでもなかったり、むしろいいことであったりします。 しかし、好きな人と楽しいデートをするときそれを人はあまり「現実」とは表現したがりません。 現実に起きていることであっても、現実という言葉は嫌なことを表現するときのとっておきの言葉にしておきたいのでしょう。 私たちはよくこういう表現をします。 「何々が欲しい。でも『現実には』私の稼ぎでは買えない」 この場合、何かが欲しいのに現実にはこんな収入しかない自分の環境への不満が「現実」という言葉に投影されているわけですね。 しかしその現実とはなんでしょうか? 人は自分にとってよいことを内面化し、嫌なことを外部と見なす傾向があります。 それは受け入れられることと受け入れられないことを自分の中で分けて、受け入れがたいものを外部と考えているからでしょう。 しかし、本来ものごとに内部も外部もないのです。すべては内部といってもいいでしょう。 あなたが会社員で職場にいつも自分に辛くあたる同僚や上司がいたとします。 その人物のせいで職場に行くのがおっくうになる。でも、他の社員とはうまくやっていける。 人は実に勝手な生き物でうまくやっていけて当たり前と思いがちです。 実際にはうまくいけてないときに「どうしてうまくいかないのだろう」と考えるのは心のどこかに「うまくいって当然なのに」という贅沢な気持ちがあるからです。 うまく行かない人が周囲に配置されているのは自分の学びのためであるとよくいいます。 そしてその意味では人生、すべてはうまくいってます。 それの考えをもっと上手に活用するためには、「すべて自分の内部にあることである」と考えるのが一つの手だと思います。 人は自分の世界を大事にしがちです。 それはいいのですが、都合のよいことは自分の世界の出来事と解釈し、都合の悪いことは外部の出来事とみなしがちです。 これは必ずしも自分の不幸を人のせいにする、という意味ではありません。 例えば、私は世界平和への思いが強いですが、心のどこかでイラクの子供たちが死んでいくのはアメリカのせいだ、と考えがちです。 実際、表面的事象だけ捉えればそうでしょう。 しかし、イラクをアメリカが攻撃している、というニュースを自分なりに解釈して子供たちの死を嘆いている主体はやはり自分自身であり、それをどう思うかは自分の価値判断です。 「戦争や殺人がいけないことだから」という単純なようでイデオロギッシュな理由でイラク攻撃に反対しているわけじゃありません。 だいたい「いけないから」人を殺さないのか?普通殺したくないじゃないか? むしろもっと単純な理由です。 やっぱりこの星が好きだから、自分が理不尽に命を奪われたくないから他の人も理不尽に死んでほしくないから、としかいいようがありません。 だからその意味で道徳的価値観も自分の中にあります。 でももし、周囲の人が嫌な存在としか映らなかったらっその存在はその人にとって内面的敵になります。 むしろ日常では表面的敵より内面的敵を外部とみなすことのほうが問題でしょう。 昔から言うように敵は自分です。 その敵とは排他心です。 それでも嫌な存在は相変わらず嫌な存在として外部にいると思うかもしれません。 そこで、外部の存在も自分の中に取り込んでしまってはどうでしょう? 外部の嫌な存在を自分の人生のエキストラだと考えるのです。 これは相手を尊重しないことではありません。 相手に必要以上の力を与えているのはあなた自身です。 相手の存在を必要以上に重く見なければ、かえって適切に接することが出来るものです。 そのための手段が「すべてを内面化する」ということです。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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