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ひさしぶりのチャネリング。
目をつむると仏教の神様(仏様?)が並んでいて。。。 その左のほうに弘法大師様がいらっしゃいました。(弘法様もアセンデッドマスターの一人です) 私は思う所あり「高野山で修行をしろと?」と聞きました。 すると「高野山ではない。だが高野山で修行をした人について修行するのだ」 「それは私に心当たりある方ですか?」 「おぬしのよく知っている者とつながりがあるものじゃ」 「それは肉体的修行をともなうものですか?」 「そうじゃ。おぬしは今身体が悪い。どう悪いかはおぬし自身が一番知っておろう。酒の飲み過ぎなのじゃ。そのようなことで人助けや、まして京都に光の柱を立てることによって日本を立て直したり、アセンションを推進する一大事業ができるものか。身体を思え。おぬしの欠点は肉の身体をおろそかにすることじゃ」 「おっしゃる通りです。言い訳はしません。もし、私がこの先お役に立つことがあるなら弘法様はサポートしてくださいますか」 「むろんじゃ。時には厳しく指導することもあろうが、それは直接的なものではない。自分の理解力によってメッセージを正しく受け取り、解釈し、私利私欲に走らぬ思いを保つならばきっとすべては良い方向に向かうぞ」 「ありがたく。ところであなたが弘法様であるという確証があるならお聞かせ下さい」 「それは審神のテクニックがなっておらぬな。よく考えてみなさい。おぬしらが言うところのチャネリングというものがあろう?今おぬしがしていることじゃ。一度誰かと繋がったとして、ずっとその存在と繋がっていると思うか?低級霊があっという間に高級霊と入れ替わり高級霊のフリをすることもあるぞ。だから大本教の出口王仁三郎も鎮魂帰神法を最終的には禁じたのじゃ。だが今では多角的チャネリングがある。一つの情報源だけに頼らないことじゃ。自分がいかに高い存在と繋がっていると思おうとも情報源を一つにしないことじゃ。一つを頼る心にこそ魔や失敗のもとがあるのだ。」 「そうですね。私が今考えていることは」 「手放すことじゃ。世界を救いたいというおぬしの気持ちは立派じゃがその思い自体に捕われておるぞ。手放すのじゃ。世界がむろん、どうなってもよいわけはない。だがおぬしの人生はおぬしだけのもの。まだそれをすぐ手放せとは言わぬ。だがいつかそれがおぬしらしい人生だったと言えるような生き方をするのじゃ。見捨てはせぬ。決して。それは時間とともに成熟するものじゃ。愛する者を傷つけることを恐れているようだが、人の出会いは偶発的だ。自分とは関係ないと思っている者が傷つくこともあると考えよ。逆に放っておいても上手く行くこともあるから安心せよ。人生は一種の自然現象なのだ。悲しみは人生の一部であって全てではない。決して一つ悪ければすべてダメなどと思うなよ」 「わかりました。それでよろしいのなら。ありがとうございます」 弘法大師様の熱いお説教に 感じ入りました。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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