信じられる意見は案外少ないって思います
あなたが何かしたいとき、何か始めようとするとき それを親しい友人に止められたことってあるでしょう?「そんなことできっこないよ」「悪いことは言わないから止めておきなよ」・・・ 人というのは実に、もう実に!思いつきやそのときの気分でものを言うものです! それは感情の生き物である人間として仕方のないこと。 私だって人様のことを言えた義理ではありません。 でも、だからといって一々人の意見に惑わされている人生はあなたの人生ではありません。 (勿論、私の人生でもないわけです) と、いっても人は悪気でものを言うわけではないんです。 昔、こんなことがありました。 終電が終わって朝までファミレスで友人と過ごした朝。 始発駅まですら遠かった場所。 朝、連れと歩いていたとき、連れはその辺のおじさんに「駅まで歩いてどのくらいかかりますか?」と、訊きました。 おじさんは「うーん、歩いて一時間くらいだね」 でも実際歩いてみれば私たちの足で三十分程度でした。 この事実が示しているのは、そのおじさんは自分の歩く速度を基準に我々に「駅まで一時間」と教えてくれたわけです。決して悪気などなく。 こういうことは日常生活のあらゆるところにあるミステイクではないでしょうか? ミスとすらみなされないほどの・・・・ 結局、自分がどうしたいか、自分ならどう出来るか、です。 私は結構ひねくれものというか知りたがりなので、科学の専門家と話す機会があると相手も私が振った話題を知っているものと、つい思ってしまい結局自分のほうが知っていた・・というようなことがしばしばあるので、専門家の言うことだって100パーセント正しいわけではないんですよ。 勿論、私の言うことだってですよ。 でも、私は人がときたま間違っても非難する気などありません。 人は間違うものですから。 大抵の場合、むしろ人は正しいのです。その人の専門分野においては特に。 問題は日常において自分の歩く速度で人に距離に応じた時間を教えたりしていないか・・・ これは大いに自戒を込めて書いています。 アメリカ人にとって60マイルはさしたる距離ではないがイギリス人にとっては遠い距離だ、ということわざ(というかなんというか)があります。 同じ日本人同士でもそういう感覚のすれ違いはあります。 人にはテンプレート思考があります。 人種的、文化的なものから個人的なものまで。 もし、あなたが何か始めようとするとき、友人が「やめときなよ」と言った場合も「そういう場合はそういう返答をするものだ」というテンプレートで言っているだけの可能性が大です。「とりあえずそう言っておけば間違いない」の思考でものを言うわけです。 あなたが大きい夢を持っていても、厳しい言い方をすれば、そんなことはあなたの周囲の人にとってはどうでもいいのです。 ある意味、ミもフタもないですが私だって鵜飼いになりたい人やフライトアテンダントにどうしてもなりたい人の情熱は理解出来ません。電車の運転士になりたい人の情熱はやや理解できますが。 でもですよ。一つだけ人の話を聞くときのルールがあります。 それは、自分には魅力を感じない夢を人が持っていても、興味がないからといって否定しないことです。 第一、ミイラ取りがミイラになることもあり、占いをバカにしていた自分がいまではすっかり占いマニアです(苦笑) 物事は流動的です。 人の意見は悪気はないと捉え聞き流し、「でも私はそれをやってのけてみせる」と、心の中だけで思いましょう。 結局、魂が望む生き方をするには魂に従うしかないわけですから。