いや、番頭というのは、すげぇ（中篇その２）
いや、番頭というのは、すげぇ（中篇その２）「う～ん（上目づかいに記憶をたしかめて）、あれは、先月のちょうど二十日だ。日をきっちりおぼえているのは、町内のお湯(ゆう)が月並みの休み（定休日）で隣町まで行ったんだ。ざっと浴びて表へ出る。とたんに女の方の腰障子ががらがらッとあいたんでひょいっとみる、年頃二十五、六…湯上りのくせに白粉(おしろい)ッ気なしの小股の切れあがったどうも、乙(おつ)な女だね。おやおや、いい女が出てきたな、と思っていると、湯ゥ屋の路地をついてつうッと曲ったから、あ、ここは抜け裏なんだなと…ふふふ、あたしも馬鹿だね、あとをつけていったんだよ… するとなに、抜け裏じゃァない行き止まり…向こうから手前へ三軒目、ご神灯が下がって格子造りのちょいと粋な家だね、見ると清元なにがしとしてあるから、あァ、清元の師匠か。じゃァ今入ったのがそうなんだろうとひょいと脇を見ると､長屋のおかみさんらしいのが子供をおぶって立っていたから『こちらは清元のお師匠(ッしょ)さんでございますか』ッてえと、『いいえ。それはほんの表向きで、まことはお囲い者でございますよ』という…。『へえ、どちらのお持ち物でございましょう』てえと、『くわしい事は知りませんが何でも、横山町三丁目の鼈甲(べっこう)問屋で山崎屋さんの番頭…（番頭の顔をじっと見て）お前じゃない、いえ、お前じゃないんだよ…そらァわかっているよ。世間には似た名前というのはいくらもある、第一おまえは堅い人間だね？ 石橋の上で転んで頭をぶつければ橋の方が痛いてんだから…まァ、お前ではないことはわかっているがしかし横山町三丁目で鼈甲問屋といえばあたしの家だ、そこの番頭といやァ…、九兵衛…お前じゃないか、…はて？ 妙なことを聞くもんだとわい思ってその日はそのまま帰ってきたが、二、三日たったお昼すぎ､お前が何か忙しそうに出て行くから、はて今時分、何処へ行くのかとと…ふふ、あたしも退屈だからね、お前のあとを見え隠れについていったんだ。 すると今言う湯ゥ屋の路地をついて曲がった…その先(あと)の足の早さてえなあなかったね、見失わないようにあたしもこう（目で見まもる態）目で追っかけていると､今言う格子造りの家をがらがらッとあけてとびこんだが…人間は、履物の脱ぎようでその人の了見がわかるもんだてえが…下駄と下駄とが、こう（手つきで形を見せながら）二尺もはなれていたね…、見ると神代(じんだい)杉(すぎ)の日和下駄に山型に二の字の焼き印が押してあった。そこをついて曲がると台所だが…おい番頭、今度行ったら小言をいいなよ。女中だか婆やァだか知らないが台所の戸を一尺ばかりあけとくのは物騒だよ、お前。ひょいと手をのばして金(かな)盥(だらい)でもさげて行かれたって喧嘩にもならないじゃないか。 得たりてんでそッからあたしがこう…覗いてみると…（思わせぶりな口調で）お前じゃァないが、お前によゥく似た番頭風の男が､今いう年増と額を寄せ合って何か嬉しそうにひそひそ話し…がらッとあけてとびこんでしまえば私(あたし)はただの奴(やっこ)だが、何も言わずにいたんだ。お前とあたしとここでかれこれ争ってみたところでしょうがないから。この事をお父ッつァんへ話しをして､白い黒いを分けてもらえば事がすむんだから…（二階から下え向かって一段と声をはりあげて）お父ッつァん！ 番頭の久兵衛が…」「（あわてて相手を制して）若旦那！ そんな大きな声を…」「大きな声は地声だ。まだまだせりあがる…」（顔をしかめ困った態）…それじゃあなた野暮で…」「いいえ、あたしゃ野暮ですよ。野暮でも商人の倅はつとまる」 ｢そういちいち、真似をしゃいけませんやね｣「（少し小馬鹿にした態で）だってお前、堅いんだろう？」「ええ…」「どうしたんだ、堅いんだろ？」「ええ、そらァ（言いにくそうに）かたい…んでございますが…ときおりは、やァらかく…」「何だ。柔らかくなっちゃいけないやね、え？（あくまでも追いすがるように）お前さんなんだろ、たしかに…」「ええ、そらァまァ何でげすが…ええ、いや、あれは…いや、とんでもない。あなたにもお話ししようと思っていたのですが…そういうなにじゃないんです。あれはあたくし縁合いのもので自分(てまえ)の…何でございます、姉の…亭主の妹の…従妹にあたる者のその…」「な…なにを言ってるんだ。ふふふ…（得たりという態で）額の汗をお拭きよ。あたしだってね、こんな事を言いたかない、けれどもお前があんまり不知(しら)をきるから、まァ売り言葉に買い言葉というので、いやなことの一つも言ったんだが…ま、お互いに見まい聞くまい、語るまい…何にもあたしは言わないから、お前も黙って三十両ごまかしておくれ。ね？ いいだろ？ 先ィ行って使うも今使うも同じだ。どうせお父ッつァんが死ねば、ここの家の身代はあたしのものになるんだから…。なろう事なら早く片ァつけちまった方がいいや。ぐずぐずしていりゃみんなお前に片ァつけられちまう…どうだ三十両、いけないかい」（この項続く）
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