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カテゴリ:つれづれ
昨日
最近休日出勤が続いていた夫が振替休日をとり、休みと言っていて、私もたまたまお稽古もなく空いていたので、遊びに行く計画を立てていたところ、 夫の母が具合が悪いとの連絡を受け、さっそく予定を変更、車で千葉は勝浦へ帰省しました。 午前11時過ぎに到着。 お義母さんの具合を確認し、とりあえず、ご飯を食べさせるために、買いこんできた食料を使ってガッツガッツと料理を始めました。 三人でご飯を食べて、母もきちんと食べてくれたので、ほっとしました。 その後、実は母が倒れてから1週間以上時間が経過しており(その間息子に連絡しない母もどうかと思いますが)その間、お世話になった方々に手土産を持ってあいさつ回り。 母に何かあるといけないので、車でささっとまわり、最後に、足りないものを買って、帰宅している車の中で。 何気なく流していたラジオ、いつものパーソナリティが、今揺れていますとリアルタイムな一報を伝えてきました。 ニッポン放送では、すぐに震度計をみて、今、スタジオでは震度いくつですと、いつも冷静に伝えてくれるので、今回もそんな様子かなと、思っていたら、どんどん揺れを伝える様子がひっ迫してきて、おおっとかああっとか、後ろで女子アナが、半分悲鳴のような声まで上げ始めました。 私たちは車に乗っていたので、全然気づかなかったのですが、かなり揺れていたらしく、こ、これはいかん、お母さんが今家に一人だ!!とあわてました。 幸い、家のすぐ近くで、すぐに私だけ車を降り、走って家の中に入り、お母さん大丈夫?と聞いたところ、 うん、また目が回ってた~とのこと。母が倒れていた原因はメニエールだったので、今回も、ぐるぐると天井が回り始めたと思い、冷静に収まるのを待っていたのです。 いやいや、お母さん、今、地震ですから!結構揺れてますから!!! と、焦る嫁。 急いで、玄関と、母のいる居間の窓ガラスを開け、逃げ道を確保。 勝浦もかなり揺れました。 私は正直、古い勝浦の家、壊れると思いました。 そして、夫も一緒でよかった、お母さんも私たちと一緒でよかった!と思いながら 今の窓辺で、明けた窓をがっしとつかんで、逃げ道を確保していました。 韓国ドラマを見ていた母のテレビは、やっと緊急報道に切り替わり、そこから、どんどん流れてくる情報に目をみはるばかりとなりました。 私は土日に箏の下合わせがあり、土曜日は9時に都内に集合の予定でしたので、 まずは帰れるかどうかの心配を始めました。 夜、上総一ノ宮まで送ってもらって、快速に乗る 夜、私の実家まで送ってもらって、そこからバスで帰る 一切そんなことはできる状態ではないことが、すぐに判明しました。 会の人に連絡をしようにも、携帯は通じない。 家の電話も通じません。 勝浦は幸い、ライフラインはずっと大丈夫で電気は通ってましたので、暖かいところで、テレビで情報を得られていたのは救いです。 そして何と言っても、インターネット!! ずっとつながっていました。 ブログ、mixiも、ツイッターもフェイスブックも読み書きができました。 ここで、携帯の伝言板に記入したり、知り合いにコメントを入れて、自分の状況を伝えるなど、今できることはすべてやってみました。 もう日帰りはあきらめて、泊まる覚悟をしたのはいいのですが、 何と言っても、何の用意もなし。 夫は日曜日までいる予定で、泊まり支度はばっちりだったのですが、私はない。 とりあえず、コンビニへ、下着やら化粧品やらを買いに走りました。 パンツが売ってなかった…・(-。-;) とりあえず、お風呂には入れますので、今日の下着に、生理用品を利用して一日しのぐことにしました。汚い話で済みません。 たまたま持っていた自分をほめてみました。 ただ、コンタクトがない。 花粉症の薬がない。 今日 朝起きて、花粉でこすって真っ赤に腫れた目のまま、ぐっしゅぐしゅの鼻のまま、とりあえず、また料理をがっしがっししました。。 母が薬を飲むためと、かなりしっかり食べてくれたので、結果、帰らずにいられて良かったと思います。 ずっとテレビを見ながら、そして、なんだかんだいってよく眠れない夜を過ごしていましたので、みんな交替でうつらうつらしながら、昼間過ごしました。 どんどん都会では電車が復旧していく中、勝浦は、電車は最後まで動きませんでしたね。 そして、高速道路、首都高、アクアライン、すべて通行止めが続きました。 何と言っても、千葉県市原市の湾岸の石油コンビナート事故があったり、京葉道路に亀裂が入ったりで、津波の心配もあり、湾岸沿いは無理だろうと。 午後になって、どうにか都内を回って地道に帰る算段を始めました。 下合わせは二日間ともあきらめました。最終的には中止になりましたので、ほっとしましたが… 都内の道路の混雑具合などニュースで見ていましたので、何しろ夜まで待って、いくら時間がかかってもいいように、車内で食べられるものなどを用意して、どうにか帰ろうと覚悟をしました。 母も、むしろ私たちが帰れるかどうか心配で、そして、鎌倉の家が心配で、その心配がストレスとなり、またぐるぐるなってしまうといけないし、いたほうがいいのか、帰った方がいいのか、本当に迷いましたが、とっても心配性の母を安心させるため、帰る方向で検討し始めたのです。 結局、夕方になってから、アクアラインが通れるようになりましたので、お夕飯まで母にしっかり食べてもらって、たくさんのおかずを冷蔵庫に入れて、午後8時に勝浦を出発。 心配された混乱は一切なく、アクアラインを無事に通過。 横浜近辺は、電気がギラギラで、節電だよ、節電しようよ…と思いながら、道は順調で、結局10時過ぎには鎌倉の家に帰ってきました。 ・・・何が心配だったかって、楽器ですよ。 箏ですよ。180cmの人たちが、皆さん、仲良く立っているのですよ。 玄関をがっと開けて、まず目に入ってきたのが、結婚した時に購入した2リットル入りの大きなワインのボトル。 良かった…そのまま立ってる! ということは? よかった~~~箏も全部無事~~~(●⌒∇⌒●) 食器も大丈夫。ピアノの上の小さい人たちも大丈夫。 本当に何もかもが大丈夫でした。 鎌倉地域は、停電が続いたそうで、電源につながっている系のすべての時計がくるってましたが・・・それを直して回って。 冷凍庫を確認して。 何事もなく、本当にホッとしました。 私の周りの家族はみな無事です。友人たちもとりあえず、みな無事でした。 被災された方たちには心からのお見舞いを申し上げます。 今後、状況が整い次第、私にもできる範囲で支援させていただこうと思います。 今回、本当にインターネット、ツイッターには救われました。 変なチェーンメールも回りましたが、それでも、すぐにそれはデマだと打ち消されたのもツイッターでした。 節電しよう、今できることをしよう、歌を歌おう、隣の人に声をかけよう、子供を抱きしめよう、そんな書き込みもあり、見ているだけで涙が出てきました。 怖いことしか言わない、フジテレビの女性アナウンサーにうんざりし、そのアナウンサーを押さえるように、静かに冷静に原発の様子を説明する東工大の教授に惚れました。 そして、なんと枝野官房長官に惚れました。 あの人の声、話し方、かなり落ち着きます。話す内容もかなり冷静で聞き取りやすくわかりやすかったです。首相の会見よりよっぽど… 世界各国が、日本の落ち着いた対応を絶賛し、混乱の起きない避難所をたたえていました。 本当にそう思います。 自分がそこにいたら、どんな対応ができるか分かりませんが、本当に日本人として、地震大国日本として、今までの知識と技能をできる限り使って、一日も早い復興、そして救援を期待します。 今も働き続けている皆様、そして、不安を抱えて夜を過ごす皆様、本当に心からお見舞いを申し上げます。そのまま、そのまま、何しろ生き延びましょう。それしか言えません。 夜中に書く手紙は朝読むと恥ずかしいとは言いますが、本当に、興奮気味のまま思いつくまま書きました。 今、夫婦二人、自分の家で何にも問題がなく、温かいところで寝られることに感謝します。 おやすみなさい。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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