カテゴリ:カテゴリ未分類
5月の伊藤若冲展の帰りに壁に張ってあったポスターを見て、是非とも拝聴したいと思っていた「京都 相国寺住職 有馬頼底師」の講演会に先月行きました。
その時のお話を。。。 講演会の申込金を振り込むと、チケットが送ってこられ、後にまた新聞社からお便りが届きました。 そこには、 「有馬住職のご配慮で、【ハンブルク浮世絵コレクション展】の入場もしていただけます。 というものでした。丁度、浮世絵も見てみたいと思っていたので、とても嬉しいプレゼントでした。 展示されているものは、有名な葛飾北斎、喜多川歌麿や国芳もありましたが、名前の知らない人の絵もありました。 最近、日本画に興味が出てきたせいもあり、どれも目を見張るものばかりでした。 若い頃は、日本画や浮世絵は「古いもの」と思い込んでいましたが、好みが変わったのかとても斬新でした。 特に気に入ったのは、鈴木春信氏の作品群でした。 遊女の日常を何枚もに描いたもので製本の技術もまだない頃の作品には、当時の息遣いが目の前に現れてきて時空を越えた「香」や「音」まで聞こえてきそうな気配がありました。 ある程度見て回った後、講演が行われる部屋へ向かいます。 有馬住職のお話。 まず、「日本には神があり、その後に仏教です。」と第一声で始まりました。仏教の住職でありつつ、神道を尊ぶ姿勢を先に示されたところに、住職の日本人としての誇りと威厳を感じました。 タイトルの「別に工夫なし」というのは、禅語だそうです。 この講演会は、仏教関係の通年の会の一つのようで、その言葉については詳細に語られませんでしたので、検索したものから引用します。 「別無工夫 (べつにくふうなし) 」 禅門で言うところの工夫とは一般的に使われる創意工夫とか、事に当たって思慮したり手段方法を考える意味とは異なり、坐禅参学に当たって工夫弁道するというように修行における精進の意味を含む。 工夫も弁道も同意語であるが意味の強調として重ねられる。 工夫は功夫としても用いられることも多く、坐禅に専心することを功夫坐禅とか功夫参学すべしなどと座禅修行における公案の思量でもあり、また坐禅そのものとしての意も含む。 京都・天竜寺の開山・夢窓国師は「本分の工夫をなす人、万事の中か工夫の中かとへだつべきことなし」と言われているが、本分の工夫をなす人とは本当に禅の奥義を窮めようとする人のことで、真の参禅修行するものは、日常の万事が修行であり、修行とそれ以外の俗事などとは分け隔てた生活はしないものである。 <真の参禅修行するものは、日常の万事が修行であり、修行とそれ以外の俗事などとは分け隔てた生活はしないものである> <いわゆる修行のための修行なんて何の役にも立たない。本来の日常の生活の中にこそ仏の教えがあり真理とする道があるのである> という内容でした。 仏教の戒律について述べられ、先般のヴィンラディン殺戮のオバマ大統領が語った「殺人を正義とする」姿勢を否めたお話もありました。 争いの根源は、何か?それは、「自我心」である。そこにモノは存在しない。存在しないという事は、争いに「根源」などないに等しい。 と言い切っておられました。 仏性は、生き物すべてに「存在」すること。 仏とは、人間であるという事。 人間のそれぞれの中に仏は存在するということ。 「子どもは人類の宝」と語り、国境を越えて子ども達の命を救うため、そして子どもの未来の為にあらゆる形で、それを提供されているお話もありました。その為の活動で多忙を極めていらっしゃることもうかがい知ることができました。カンボジア、プノンペンを訪ね、そこに学校を建設する為の資金援助をされたお話。 「なんとしても生きるんだ」という意識をもてば、生きてゆけるというお話。 「物を大切にする」お話。 「人間は怠惰になったら、ダメになる」お話。 そして最後に 神棚があって、仏壇を祀る各家庭のあり方こそが、日本人特有の精神を忘れないこと。神仏の祈りの尊さを忘れてはならないこと。 日本人が行くべき道を思い出しましょう と締めくくられました。 子ども達の未来を案じ、福島県原発事故のあと、核廃絶を叫び続けることの大切さ、そして日本固有の文化の尊重を大事に思われている住職のお話しは尊いものでした。 相国寺へ向う際に、かつてじそう様に頂いた「禅僧が往く」を改めて読み返したときに、新たな発見が二つもありました。 本を頂いた当時は、知らなかった白洲正子さんのお名前がそこに挙がっていました。住職が、まだ骨董品や芸術作品の目利きが出来なかった時にそれを伝授されたのが、「白洲正子」さんだったということ。 2月頃に、住職が脱税という記事が世間をにぎわしたことがありました。 その事については、触れられませんでしたが、かなり傷心された様子は伺えました。 「ある雑誌には、私に2号がいるとまで書かれた。1号もいないんですよ。週刊誌なんて本当に出鱈目ですな~!」と立腹されていました。 故意に脱税をされたわけではないことは、十分理解できます。記事は、あまりにもセンセーショナルを追いすぎてるだけの出鱈目なものであることは、昨今のメディアのあり方でも象徴的で辟易します。 今回、先に浮世絵を目にし、その素晴らしさに感動したことで、住職がなぜこれほどに美術にこだわり続けられているのか。 日本文化を、日本人を大切に思う心が ひしひしと伝わってきました。 日本には、たくさんの芸術作品がありました。それらが、なぜ海外に流れてしまったのか。そういう事をちゃんと知らずにきました。それを改めて学びたいきっかけにもなりました。それは、岡本太郎が、作品を売らなかった理由にも繋がるのだろうと想像できました。 そして著書の中に、もう一つ。 一休宗純の最期の言葉に「死にともない」と遺した言葉の意味が、そこに書かれてあって、目から鱗でした。 「死にともない」=「死にとうない(死にたくない)」じゃなかったのです! また 改めて「禅僧が往く」を読み直すきっかけにもなりました。 だらだらと長い文章でごめんなさい・・・読んでくださり、有難うございます。 感謝☆多謝☆ お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
|
|