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□無碍(むげ)
なににもこだわらないさま なにかがおこり、それに対する対処(内的、外的に)がまったく不能になった場合、 最終的にいたるところ。 まあ、わかります。 どんな対応も対処も不能になったら、いわゆるあきらめて受け入れるしかなくなる。 受け入れるとは、許し、認めること。 許すから、受け入れられるのか? 受け入れられるから、許せるのか?の順番は不明。 あえていうなら、 許せると知っている、、 からだろうか。 許さないことは楽だ。 何かのせいにしてほおって置けばいいから。 許すのは苦痛と苦悩を伴う(ことが多い) 本質的になにかを許すとき、それを凝視し、認識する必要があるからだ。 自分的にイヤだとか、嫌いだとか思っているものを凝視するのはつらいことが多い。 つらいから、イヤだとか、嫌いだとかになるともいう。 ではなぜ、許すのだろうか? 許すことの素晴らしさを知っているからじゃないんだろうか。 絶対的な存在としてあるのかもしれない。 ゆるがない存在としてあるのかもしれない。 『許す』ということの素晴らしさがあるから、許せるんだろう。 なんだそりゃ。 そして、結果的にいたる、、無碍に。 前提からすべてを根こそぎ変えてしまう方法。 地球が、自然がもっている大いなる力、、 ただ、無碍であるための必須項目がある。 自分を知ること。 これがなければ、無碍は何の役にもたたない。 迷いがあっては、無碍にはなれず、 自分を知らなければ、迷いは無限に生まれる。 なぜ、迷うか? それは、絶対的な『思い』というものに気づかないからだ。 『思い』に気づけば、思いを体現するだけだなと知れる。 『思い』がすべてなのだともわかる。 まあ、世の中で言うほど常識的でも、人情的でもないので、そこで迷う人はいるだろうけど。 選択に迷うことはあれども、根本的な迷いでないことを知れる。 『思い』は「思ったこと」や「考えたこと」、「感じたこと」などとは、 全く違う。 言葉の説明は難しいがあえていうなら、 チョー純粋なエネルギー体だ。 その純粋さ、エネルギーの密度の濃さ、繊細さに圧倒される。 さらにその『思い』も変化する。 いつなんどき変化するかはわからない。 そもそも複数の『思い』があるのか。 徐々に変化していくのかはわからない。 だが、確実に変化していく、ゆえにそれを捉え続ける感性と、忍耐、 先入観の取り除きが必要になる。 まえの『思い』はこうだったから、、なんていうものは全く意味がない。 常に新鮮にそれを捉えつづけるということが必須になる。 さらには、『思い』を実行する無謀さというか勇気が必要になる。 これは、社会通念と真っ向から位相するものだから、本当に勇気が必要になる。 または、バカになる必要がある。 トクをしようなんて打算をしていたら絶対に無理。 ゆえに、非常に純粋な行動になる。 『思い』のエネルギーそのものだからだが、純粋ゆえにむちゃくちゃだ。 だが、圧倒的でもある。 もし、人生に目的があるとするならば、 『思い』のままに生きること だろうと思った。 『思い』は『欲』なんかの不純なエネルギーとは全く違う。 自分を守ろうとすらしない。 あるがままだ。 無碍になる必要もないのだが、 必要に駆られることもある。 それしか方法がないなら、自然とそれにいたる。 ただ、それだけのこと。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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