|
カテゴリ:ヨハネス・ブラームスの音楽
今日の朝夕の風は秋のものでした。
おっさんくさくてだらしないクールビズもあと半月で終わりです。 夏が去っていき,秋がやってくると,僕はなぜかほっとします。 「主よ秋です。夏は偉大でした。」リルケ。 この詩は昔から好きで,たびたび読み返しています。 「秋の日」という詩です。 もしよかったら読んでみてください。 とてもいい詩ですから。 今日は思いがけず秋の風が吹いたので,ちょっと飛んでピアノコンチェルト第2番です。 この曲のスコアは,ピアニストに質・量ともオーケストラと対等かそれ以上のウエイトをもってこの曲を支えることを求めています。 でも,この曲,徹底してピアニストの苦労が見えにくく作られています。 テックニック・バランス・センス・体力どれも要求水準がハイレベルの曲であるにも関わらず,そんなことは「なんのこと?」と言わんばかりに徹底して優美に,何の抵抗も障害も感じさせずにピアノとオーケストラが一体となって流線型の大きなうねりをかたちづくっていく心憎い曲想。 ブラームスも相当意地悪です。 素人目にも,もう少しピアニストに「花」を持たせあげてもよいようなもの。 この落ち葉散る秋風のような曲に,「花」はいらないとでも言うのでしょうか。 よく言われることだけど,もはやこの曲はピアノ協奏曲という概念を超越した,「ピアノと管弦楽のための交響曲」なのです。 この曲を聞き,今の僕の身の上,仕事上の立場とを振り返り,つくづくこのピアノを「うらやましい」と感じるときがある。 それはこの曲のピアノのスタンス,この曲の中で位置付けらた,期待されているピアノの役割である。 この曲に例えて言うなら,今の僕の立場は第2ヴァイオリンの最後列みたいなものだ。 第2ヴァイオリンの最後列の人間は,第2ヴァイオリンの最後列の仕事しかしない,できない。チャンスも与えられないから,実力も身につかない。ピアノを弾いたことのない人間にピアノは弾けない。当たり前のことだ。 「この曲をこういうふうに演奏したい」と思っても,それは指揮者の考えること,指示すること。意見を言える立場でもない。言う勇気もない。言う実力もない。 気が付くと,第2ヴァイオリンの最後列的な考え方しかできなくなっている自分がいる。情けない。そういう自分に気付くときは,本当に情けない。 交響曲の全体の構造を理解していないといい演奏はできないのに,「おれは第2ヴァイオリンの最後列だからこれくらいでいいや。」と易きに流れ,自分で自分の限界を決めてしまう。でもそれは危険なことだ。あってはならないことだ。 だから僕は,一人の組織人としてこう思うのだ。 いつかは100人のオーケストラをバックに漆黒のピアノの前に立ち,堂々とこの曲を演奏するピアニストのような仕事をしてみたい。 僕は組織の頂点たる指揮者でなくてもいい。 ソリストとしての「花」もいらない。 いちスタッフとして,重要な役割を担い,存在感のある仕事をしたい。 そしていつかこう言われたい。 「これをやるには,あいつが必要だ。」と。 ブラームス作曲第2ピアノ協奏曲のピアニストのように。 ※ちなみに今日の演奏はポリーニ・アバド=ベルリン・フィルでした。 髪の毛は白く薄くなっても目はますます輝きを放っている,そんなポリーニはとてもカッコいいですね! お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2005年09月21日 15時49分29秒
コメント(0) | コメントを書く
[ヨハネス・ブラームスの音楽] カテゴリの最新記事
|