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2005年09月29日
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 理由なく,人を傷付けてしまうことがある。
 不用意に,人を傷付けてしまうことがある。
 なぜそのときそのようなことをしてしまったのか。
 なぜあのときあのようなことを言ってしまったのか。

 あのときは,そのような意識はまったくなかったのだけれど。
 あのような結果を招くとは思いもしなかったけれど。

 でも,いくら後悔したところで,過ぎ去った時は戻ってこない。

 それが厳粛なる現実。
 
 人に傷付けられた人は,まだしもその人を恨み,呪うことができる。
 でも人を傷つけた人は,己を恨み,呪うことしかできない。
 (本当に人が傷つくのは,人が人に傷付けれたときではなくて,人が人を傷付けたとき(そしてそのことに気づいたとき)ではないだろうか,とは,人の痛みを知らない傲慢な考えだろうか。)

 呵責。(僕はあえて「良心の」という枕詞は使わない。)

 それは一生その人を切りつける刃。
 思い出したときに痛む古傷。
 人は人を許すことはできても,自分を許すという恥知らずなことなどできるものだろうか?
 
 あるとき,僕はこう決意した。

 もう二度と絶対に,人を傷つけないようにしよう,と。
 そのためにもっと賢く,もっと強く,もっとやさしくなろう,と。

 でも僕は今でも相変わらず人を傷つけ続けている。
 ひどいことに,それに気づく心の襞も繊細さを失いつつある。

 いっそのこと,何か罰を受けた方が楽だ,と思うこともある。
 もはや人として生きる資格を失った,と思うこともある。
 でも僕は,罰を受けることなく,人としての資格を失ったまま生きている。

 僕はいくつもの罪を重ね続けて生きている。
 愚かで,弱くて,薄情なままで!

 この「ピアノ四重奏曲 第1番 ト短調 作品25」とは,そんな曲だ。
 
 身を焼く呵責の業火。

 うつむき加減に迷いながら,たどたどしくではあるが一歩一歩歩き出すような序章で始まる第1楽章(「生くべきか生かざるべきか、それが問題だ。」ハムレット)。突然訪れる激しい自責の念。ピアノの身悶えるようなフォルテ。第2主題として生まれる優美な歌は,悲しいことに自嘲的・諧謔的にしか響いてこない。そして多くのブラームス作品がそうであるように,この楽章も静かに消えゆくようなデクレッシェンドで終わる。まるで力尽きた戦士の膝が崩れるように。戦いを諦めるかのように。
 不安に怯えるような,いわれもない焦燥感に駆られるような第2楽章のスケルツオ,いや,ブラームス先生お得意の間奏曲。
 見知らぬ道を彷徨い歩くかのような第3楽章のアンダンテ(もちろん,歩くような速さで)。苦しみの末にようやく生まれた希望の動機が,次第に行進曲風に勢いを増していく。が,いつの間にか短調に転じることにより自らを否定してしまう(まるでそれが生まれ持った運命であったかのように。)。諦観と哀訴。
 第4楽章はブラームスお決まりのハンガリー風舞曲形式。しかしそのテーマは地獄の業火の焼かれ,踊らされているかようにのたうちまわる自らの姿。

 徹底して救われないテーマ。

 でも,そのほうがよい。
 むしろ,そうでなければならない。

 よく知られていることだけど,この曲にはシェーンベルクによるオーケストラ編曲版が存在する。・・・シェーンベルクの手によるブラームス作品の編曲は僕の知る限りこの1点のみである。彼もこの曲には特別の思い入れがあったのだろう・・・
 ブラームスはことオーケストラに関しては特に選りすぐりものしか残していないので,もっとシンフォニーを書いて欲しかった!というブラームス・ファンの不満と願いを込めて,「ブラームスの第5交響曲」とも呼ばれるオーケストラ版だけど,(大仕事をしてくれたシェーンベルク先生には誠に申し訳ないけど,)個人的には,内省的な激しさと密度の濃い宇宙を持つこの曲は,オリジナルの四重奏の方が相応しい,と思う。オーケストラになると確かに響きは豊かになり多彩な音色が備わり表現の幅が広がるのだけど,この曲の核となるべき力のようなものが拡散してしまって,この曲独特の「のたうちまわる」系の苦痛の表情が薄らいでしまう。とは言っても,四重奏で十分な響きが得られているかというとそうではなくて,確かにこの曲は「ピアノ四重奏曲」という枠から出たがっている(シェ―ンベルクはそれに気付いたのに違いない。)。だけど,その自らの殻を破り,自らの肉体を内側からえぐり出し,生まれ変わろうとする力,煮えたぎるマグマのような沸々とした噴悶,それこそがこの曲のなにものにも代え難い独自の魅力になっている,のかもしれない(巧言令色鮮し仁,剛毅朴訥仁に近し。)。

 明日で夏の軽装期間(クールビズ)が終わるけど,僕は昨日から軽装をやめた。
 実際,時折もう肌寒さを感じる季節になったし。
 それに,スーツを着るのは嫌いではない。むしろ好きな方だ。
 朝,鏡に向かってネクタイを締め,上着を着て外に出ると,自然に背筋も伸びて,少しは「ちゃんとした」人間になったような気がする。
 今日も生きていこう,と誓う朝。



※ 手許にあるCDは,ヴァーシャーリのピアノ,ブランディス,クリスト,ボルヴィツキーの弦によるもの。いずれもカラヤン時代を支えたベルリン・フィルの首席奏者たち。オーケストラ版はクリストフ・エッシェンバッハとヒューストン交響楽団。暗く情念がかってて,なかなかよい。





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Last updated  2005年09月30日 01時28分46秒
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