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カテゴリ:ヨハネス・ブラームスの音楽
「ネタがなくても,とにかく書くことがブログを続けるコツよ。」
とヨメさんがのたまうので,文字通りネタがないけどとにかく書いてみることにする。 なので,タイトルもブラームスらしく,間奏曲。 INTERMEZZO. インテルメッツオ。 ブラームスはこの所在なげなスタイルがよほど好きだったらしい。 晩年のピアノ作品には,頻繁にこの「間奏曲」が登場する。 間奏曲という,形式としてはどっちつかずなところがブラームスの自然な感興が乗せやすかったのだろうか。 なかでも6つのピアノ・ピース作品118の2は有名で,屈指の名曲。泣かせる。 秋の湖に揺れる午後の日差しのような曲―――うっ・・・臭すぎる・・・まるでNHKの「名曲アルバム」の映像的発想・・・反省。 「クラシックなんて年を取ってから聞くもんだ。」 と高校時代に友人T君が言った。 「年を取ってからじゃなくて,俺は今聞きたいんだよ。」 と僕はそのとき小さな声で一応反論したけど,若いうち,特に高校生のころというのは,(今では立派なおっさんになれ果てた僕でさえも)それこそ小鳥の羽毛のように繊細で,草食動物のように敏感な感受性を持っていたものだ。 あのころは,マーラーの第1交響曲の第1楽章の第1主題だけでも,何度も何度も頭の中で繰り返し反芻して,ひとり興奮し,感動していたものだった。 あのころ,もっとたくさんの曲を聞き,もっとたくさんの絵に触れ,もっとたくさんの本を読んでいればよかったな,と思う。 けれども,そのときはそのときで,いっぱいいっぱいだったのかもしれないな,とも思う。 繰り返しになるが,「クラシックは年を取ってから聞くもの」という指摘は,T君,残念だが間違っている。 ブラームスの晩年の心情に触れた高校生の感動と憧憬を否定するのか? でも,今振り返ると,そのときT君のいわんとしたことはわかる。 きっと, 「若いうちからクラシックだけ聞いてどうすんの?」 と言いたかったのだろう。 確かに,若いころからクラシックに偏り過ぎた聞き方をしてきたことについては多少反省している。 若いうちは,もっと無差別にJ-POPもクラシックも同じスタンスで聞かねばならなかったのだ。音楽に限らず,絵も,本も,映画も,とにかく偏見を捨てて場数をこなして,そうして自分の目と耳を鍛えて,誰の真似でもない誰の受け売りでもない本当の自分の哲学を形造り,感受性の先にあるものを手に入れる訓練をする必要があったのだ。でも僕がそれに気付いたのは20を過ぎてだいぶ経ってからの話だったけど。 でもT君,君の発言のその先にあった 「クラシックはいいものかもしれないけど,そのよさは年を取ってから気付けばいいものだろう?」 的なシニカルなせせら笑いについては,それはとんでもない勘違いだ。今度会ったら,断固否定させてもらう。 2005年,秋の夜長。 東京のはずれの官舎に1時間以上かけて帰宅する。 外には秋虫が鳴いている。 僕は30歳。 今,このときに,この場所で,ウィルヘルム・ケンプの弾くブラームスの6つのピアノ・ピース作品118の2を聴くことのできる,この秋の夜。 この一夜の味わいだけでも,「若いうちからクラシックを聴く」だけの価値はある。 ネタはなかったのだけど,書いてみると気がついたらネタっぽくなってしまった。 先輩のアドバイスは聞くものだ。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2005年10月13日 12時17分01秒
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