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テーマ:好きなクラシック(2328)
カテゴリ:モーツアルト
新年明けましておめでとうございます。 今年もよろしくお願い申し上げます。 さて、今年はモーツアルト生誕250周年。 モーツアルト・イヤーです。 若いころは、こんな生誕・没後○○周年などといったカウントに何の意味も感じなかったのですが、こうして普段から接しているものに対して新たな気持ちで見直せる機会というのは貴重なものだと思い始めている今日この頃です。 僕もそれなりに年を取りました。 ところでモーツアルト。 ウォルフガング・アマデウス・モーツアルト。 モーツアルトは、僕にとってどこか特別な作曲家です。 眩しいばかりに明るく、華やかなモーツアルト。 若いころは、いろいろ思考が捻じ曲がってこんがらがって、とにかく自分を責めていました。 こんな酷くて不幸な僕には、明るく幸福なモーツアルトを聴く資格などないんだ、と。 ベートーヴェンやマーラーの短調作品ばかりを聴いていました。 でも、最近ではモーツアルトを聴く自分を許せるようになりました。 僕もそれなりに年を取りました。 交響曲第29番イ長調。 この幸福な交響曲は、僕とって特別なモーツアルトの中でも、さらに特別な作品です。 モーツアルトはいつもそうですが、このシンフォニーはどこまでも音楽の流れが自然で、まるで神の創造物のように完璧な美しさをもっています。 曲はひっそりと静かに始まりますが、序章なしでいきなり丸裸の主題が登場します。 そしてちょっと足場を確かめるように軽くリズムを取ったかと思うと、突然の急上昇。 シンプルにして大胆不敵な開始ですが、しかし群を抜く優美さをもって、この交響曲が一気に始まります。 続く各楽章も、惜しげもなく数々の旋律が次々と奔流のようにあふれ出ていきます。 まるで喜遊曲、ディベルティメントのようですが、このロダンの彫刻のように整ったプロポーションは、間違いなく交響曲、シンフォニーのものです。 天才のインスピレーション。 「愉悦」 僕はこの曲を聴くといつもこの言葉を思い浮かべます。 この交響曲では、間違いなく天使たちが輪を描いて踊っています。 神の祝福を受けた音楽です。 このクレンペラー盤は、この幸福な交響曲の幸福な演奏。 私たちは、この曲のこの録音が残されていることを神に感謝しなければいけない。 モーツアルトは、力を入れすぎても、抜きすぎても、また色気を出しすぎても、出さすぎなくても駄目で、ひとつ誤れば非常に下品な演奏になってしまいます。 しかし上品過ぎても薄っぺらで魅力がなく、その辺の力加減というのが難しいようです。 それはモーツアルトに限ったことではなく、すべての音楽、すべての芸術、ひいては個人の人格においても当てはまるひとつの真理なのですが…(品性というのものはそういうものではないでしょうか?)モーツアルトはそんな芸術家たちの「格」を計るリトマス紙です。 真の巨匠であったクレンペラーは、余裕たっぷり、魅力たっぷり。 クレンペラーはいつもそうですが、一見ぶっきらぼうなインテンポ。 しかしそれが、「なにも足さない、なにも引かない」で「素材の味をそのままに」というシェフの究極の命題を果たしています。 クレンペラーは、この「空(くう)」の境地に達した指揮者でした。 彼にはもうちょっと年代の古いモノラル盤があります。 それはそれでもっと凛々しく引き締まった音が大変魅力的なのですが、僕はさらに深みのあるこの録音が好きです。 以前は第25番ト短調と第31番「パリ」とのカップリングでしたが、このCDは違うようです。 しみじみと幸福を噛み締めるような第29番の魅力的な出だしは、第25番の疾風怒涛の哀しみを受けたあとに始まるとまた格別な味わいがあるのですが… 前にも書きましたが、こういう意味のない「カップリングくずし」はやめてほしいものです。 今は午前5時です。 今年の正月はちょっと長めに休暇をもらって、いま九州で嫁さんのパソコンから更新しています。 昨日から仕事の嫁さんはまだ隣の部屋で寝ています。 その嫁さんの寝顔を見て、この曲を思い出しました。 「これからこの人は、僕の伴侶として常に僕の傍にいてくれるんだ。」 それをしみじみ感じるしあわせ。 今日も仕事に出てゆく嫁さんのために、これから朝ごはんを作ります。 料理は僕の方がちょっとだけ上手いようです。 *今年は戌年ですよ~* ↑実家の愛犬Happyさん(♂) *今年も飲み正月でした…* ↑同じく実家の愛猫あゆみちゃん(♀) お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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