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テーマ:お勧めの本(7354)
カテゴリ:ブラームスの本棚
村上春樹著『ノルウェイの森』の中に,ブラームスが2回,登場します。
古い小説ですが,僕はこの小説が病的に好きなので(好きだったので),今夜はそのご紹介。 一月の末に突撃隊が四十度近い熱を出して寝込んだ。おかげで僕は直子とのデートをすっぽかしてしまうことになった。僕はあるコンサートの招待券を二枚苦労して手に入れて,直子をそれに誘ったのだ。オーケストラは直子の好きなブラームスの第四シンフォニーを演奏することになっていて,彼女はそれを楽しみにしていたのだった。・・・ 我々がコーヒー・ハウスに戻ったのは三時少し前だった。レイコさんは本を読みながらFM放送でブラームスの二番のピアノ協奏曲を聴いていた。見渡す限り人影のない草原の端っこでブラームスがかかっているというのもなかなか素敵なものだった。三楽章のチェロの出だしのメロディーを彼女は口笛でなぞっていた。 「バックハウスとベーム」とレイコさんは言った。「昔はこのレコードをすりきれるくらい聴いたわ。本当にすりきれちゃったのよ。隅から隅まで聴いたの。なめつくすようにね」・・・ この小説を読んだことのある人は,「ああ,あの場面ね」と懐かしく思い出してくれると思う。とても効果的な,ブラームスの使われ方です。 「直子」がブラームスの第4交響曲を好んでいた,というエピソードは,これからの小説の展開にはたぶん不要なエピソードかもしれないが,この曲をいくらか聴いたことのある人間にとっては無視できない重要な「しるし」として,ちょっとした暗い影を落とすエピソードです。 第2ピアノ・コンチェルトの第3楽章のチェロを除いて,高原の中の「僕」と「直子」と「レイコさん」のほんのひとときのやすらかな時間を表現することはできないでしょう。しかもそれが「バックハウスとベーム」であって,「レイコさん」の過去をさりげなく匂わせています。 この小説は,いつごろからか「限りない喪失と再生」というキャッチコピーが付けられるようになったようですが,僕はそんな言葉で表現できるようなものではないと思います。 村上春樹自身が言っているように,これは紛れもない正真正銘の「ラブ・ストーリー」です。 僕にとっては「若きウェルテルの悩み」のように,青春そのものような小説です。 村上春樹は,決して多作ではありませんが,「ねじまき鳥クロニクル」や「スプトーニクの恋人」や「海辺のカフカ」など,いくつかの力作を生み出し続けています。しかし,最近は,「村上春樹が小説を書いている」,というよりも,「そのときどきの村上春樹の境地を小説で示している」といった色あいが濃いような気がすします。「ねじまき鳥クロニクル」ではぼんやりとしていた「こちら側」と「あちら側」は,「アフター・ダーク」でだいぶビジュアル的にはっきりしてきたように思う。そのような世界を,彼はだんだんはっきり感じはじめてきたのでしょうか。 村上春樹の作品には,『ノルウェイの森』の中のブラームスと同じように,必ずと言っていいほどクラシックがひょっこりと効果的に登場するので,是非探してほしいと思います。もし,その曲を聴きたいと思ったのなら,是非聴いて欲しいです。そうすれば,小説も,その曲も,二重に楽しめるはずだから。 代表的なところでは,『ねじまき鳥クロニクル』の3編には,それぞれ, 第1部『泥棒かささぎ編』(ロッシーニ「泥棒かささぎ」序曲) 第2部『予言する鳥編』(シューマン「森の情景」から「予言する鳥」) 第3部『鳥刺し男編』(モーツアルト「魔笛」からパパゲーノのアリア「俺は鳥刺し」) というタイトルがつけられていて,それぞれカッコ書きのクラシック作品に対応しています。実際の小説の中では「チラッと」出てくる程度ですが,曲はそれぞれ「暗示」又は「暗喩」としての役割を担っているようです。 台所でスパゲティーをゆでているときに,電話がかかってきた。僕はFM放送にあわせてロッシーニの『泥棒かささぎ』の序曲を口笛で吹いていた。スパゲティー をゆでるにはまずうってつけの音楽だった。・・・ 皆さんご存知の,有名な第1部の冒頭シーンです。 最近出た短編集に,グレン・グールドを好む男の話があるそうです。 本は買いましたが,まだもったいなくて読んでません。 来週末にちょっとした旅を計画しているので,その電車の中で読もうと思います。 さて,長くなってしまいました。 最後に村上春樹の小説の中で,僕の好きなフレーズを紹介して終わります。 「日曜日には,僕はねじを巻かないのだ」 『ねじまき鳥・・・』ではなく,『ノルウェイの森』の中の「僕」のセリフですので,念のため。 ねじを巻かない,今日もそんな日曜日でした。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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