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テーマ:好きなクラシック(2316)
カテゴリ:ヨハネス・ブラームスの音楽
久しぶりのブラームスです。 今夜はヨメさんが当直でいないので、一人でゆっくりたくさん音楽が聴きました。 そんなわけで、フルトヴェングラー&ベルリン・フィルのブラームス第3交響曲2連発なんて贅沢なことをしてみました。 今夜、フルトヴェングラーのブラームスを聴いていて、ハッとする瞬間がたくさんありました。 たとえば緩除楽章のなんでもない木管のニュアンスや、静かな弦の抑揚など。 これはなんだんだろう。 僕はしばらく考えて込んでしまいました。 そして、ひとつの結論にたどり着きました。 断言しますが、これはまぎれもないネイティヴの響きなのです。 ネイティヴだけが表現できる言い回し・抑揚・発音ってありますよね? あれです。 訳することのできない言葉のニュアンス。 「私の芸術はドイツ以外では理解されない」 というフルトヴェングラーの言葉は、意味深です。 この第3交響曲に限らず、フルトヴェングラーのブラームスは、まるでブラームス本人の肉声のように生々しいものです。 ここでは、「ゲルマン的」「ドイツ的」という言葉で表現される、いくぶん概念があいまいな精神的なものよりも、もっと肉体的で人間的で個人的な、それゆえに確固として気高いものがあります。 個人的な好みでは、熱い魂を燃焼し尽くしたかのような1949年EMI盤よりも、しみじみと一つ一つの音を確かめるような1954年DG盤のほうが好きです。いうなれば、若いころお世話になった先生と固く握手しているような演奏です。原点ですね。これは。 僕も九州の空気を吸った瞬間、九州弁のネイティヴに戻りました。 ちなみに、九州男児の精神を一言でいうならば、「いさぎよさ(潔さ)」だと思います。 とんこつラーメンと一緒で、意外と中身はこってりしていませんよ? もちろん、人それぞれですが、最近は日本全国平均化されてしまって九州人も東京人もあまり変わらなくなってきましたね。 ある意味、これは文化と芸術の危機だと思いますよ。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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