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テーマ:好きなクラシック(2316)
カテゴリ:ヨハネス・ブラームスの音楽
現地の色の黒い男が、不思議な太鼓を叩きながら、 ひとり歌を歌っていた。 その歌があまりにも切なく、美しかったので、 思わず、私はその男に 『これは恋の歌ですか』 と聞いてみた。 すると、その男、 『いいえ、これは恋の歌ではありません。』 一呼吸置いて、 『でも、歌というのは、音楽というものは、或る意味ではすべてラヴ・ソングだといえるのではないのしょうか』 とその男は答えた。」 というような文章を、むかしどこかで読んだ記憶があるのだが、 今となっては出典は定かでない。 たとえば、色恋沙汰の書かれていない文学など存在しないように、 音楽とはすべて、とどのつまりは恋の歌。 と言い切ってしまうとさすがに極論かもしれないが、 音楽には「そのような側面」がたしかに存在していると思う。 上手く説明できないけど、僕はそう思う。 少なくとも、ヨハネス・ブラームスに限って言えば、 この「公式」は見事に当てはまる。 なぜなら、ブラームスの音楽には必ずクララ・シューマンがいるからだ。 クララのいないブラームスなど存在しないし、 クララのことを考えずに作曲したブラームスの音楽など存在しないのだから。 ブラームスとクララとの関係を、「恋」と言い切ってしまうのはちょっと抵抗があるけれども、 あの複雑で特別な関係をそのように呼ぶことは(少なくとも、ブラームスの側から見て)そう不適当な表現ではないであろう。 ブラームスの音楽には、いつもクララがいる。 壮大な交響曲の響きの中にも、洒脱な協奏曲の掛け合いの中にも、室内楽のちょっとした間の中にも、孤独なピアノ曲の中にも。 僕が冒頭の文章を思い出したのは、 最近ずっと彼のヴァイオリン・ソナタを聴いているからです。 中でも僕は、第2番のソナタが好きです。 この最も「ブラームスらしい」ソナタの名曲は、 第1楽章の遠い憧れ、第2楽章の親密な戯れ、第3楽章の別離の悲しみ という不思議なストーリーが流れています。 この曲にある「なぜ?」は、 すべてクララに向かって発せられているものです。 でもそして同時に、ブラームス本人に対しても。 「なぜ?」 彼らは答えてくれません。 その答えのない問いは、私たちのまえに美しく提示されたままです。 このブラームスの恋の歌、 研修中も繰り返し聴いていました。 僕が今聞いているのは、前掲のズッカーマンです。 ほかの人のヴァイオリンも聴いてみたくなりました。 どなたか、お勧めのCDがあれば、是非教えてください。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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