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テーマ:好きなクラシック(2316)
カテゴリ:ヨハネス・ブラームスの音楽
評判のツィマーマン&ラトル=ベルリン・フィルによる ブラームス ピアノ協奏曲第1番 を聴く。 何日もかけて何度も繰り返し聴いてみた。 最初に断っておくが、 何かを非難する・または否定的な態度をとるということは、 無責任に褒めちぎり、親和的に振舞おうとするよりも 何十倍ものエネルギーが要る。 さ、早いこと言ってしまう、 正直言って、僕はこの演奏を好まない。 確かに、迫力には事欠かないし、独自の解釈のあとが伺える。 だが、ツィマーマンとベルリン・フィルが組めば、これくらいはやるだろう、といったレベルの域に留まっている。 それに、ツィマーマンとラトルは、向いてる方向が違う。 誤解を恐れずに言うなら、ラトルはツィマーマンを、そしてブラームスを理解していない。 演奏のカロリーは高いのだが、音楽のエネルギーがことあるごとに拡散してしまっていて、ひとつの方向性のとしてのまとまりがまるでないのだ。 一言で言えば、マーラー的(←もちろん否定的な意味で)ブラームス。 ツィマーマンのピアノは、バーンスタインとの旧録音の方が魅力がある。 すこし慎重になりすぎている嫌いがある。 第1楽章の最初の一音もあまりにも弱弱しすぎるし、 クライマックスでも計算高さを感じてしまって、イマイチ「乗れない」。 素材もよい。仕立てもよい。デザインもよい。モデルもよいが、 ゴージャスすぎて、本質を損なってしまった着物のような、そんな演奏。 ところで、僕がこれまで同曲のベストだと思っていたのは、 ポリーニ&アバド=ベルリン・フィル盤 と ギレリス&ヨッフム=ベルリン・フィル盤 のふたつだった。 前者はスマートな迫力と重量感をスポーティな爽快さで聴かせ、しかもブラームスの世界を逸脱することなくまとめ上げたものだし、 後者はいかにも「ドイツ」「ゲルマン」のブラームスで、有無を言わせぬ正攻法によりブラームスという音楽の要塞を力ずくで陥落させた貫禄たっぷりの演奏だが、 最近、このふたつの録音が色あせてしまうほどのすごいものを聴いてしまった。 それがこの廉価盤、エリーヌ・グリモー&ザンデルリンク=ベルリン・シュタッカーペレ 1997年の録音。 おそらく一発ライヴで、若きグリモーの熱い息遣いをしっかりマイクが捕らえている。 (ほんとうに、ときどき息が上がりそうな、彼女の声にならない声が入っている) ブラームスという重圧を、小さな肉体で必死で受け止めようとする彼女。 彼女を濾過して鳴り響くピアノからは、まるで今この場で生まれたかのように新しい、鮮烈な音が浮かび上がってくる。 個性的な解釈も、至極自然体に聴かせてしまう。 こういう人を、ほんとうの「芸術家」と言うのだろう。 ザンデルリンク=ベルリン国立管弦楽団の音は、真に音楽的迫力と底力を持って彼女を支えている。 某「世界一」のオーケストラが器用貧乏になりつつあるのに対し、ここで聞くずっしりとしたいぶし銀の美しさは貴重である。 音楽的な迫力というのは、音量的な大きさとテクニックの上手さだけでは駄目なのだ(それじゃサーカスになってしまう。)。 クラシックの演奏者が、音楽のこころ・音楽のコア的なるものをしっかりと理解していないと、オーケストラはただの「見世物」か「科学技術」となってしまうのではないのか。 同曲異演の聞き比べ。 戦う意志のない者同志を、 同じ競技場へ放り込み、 無残にも血を流して戦わせ、 勝手に優劣を決めてしまう。 まるでコロシアムを見物するローマ皇帝のように。 これは皇帝の娯楽。 しかしこの悪趣味な楽しみこそが、 現代においてクラシック音楽を聴く者だけに許された愉悦でもあるのだ。 *ちなみにこのグリモーのボックスセットは、ラフマニノフ2番、ベートーヴェン第4番、ラヴェル、シューマンなどの、どれも素晴らしく充実したものが入っております。必聴です! お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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