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2008年07月05日
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カテゴリ:チャイコフスキー
 「トスカニーニには、アリアとトゥッティしかない。」

 とフルトヴェングラーが言ったとか言わないとか。

 フルトヴェングラーの真骨頂は、「バイロイトの第九」のような

 「超のつくほどの大激演」ではなく、

 「まるで作曲者自身が肉声で語っているような」

 必然性と説得力のある演奏ではなかろうかと思う。

 彼が得意としたベートーヴェン、ブラームスなどは、まさしくそのような意味での

 ネイティヴのイントネーションがあり、確固とした「流れ」と「意味」がある演奏なのだ

 と思う。

 フルトヴェングラーのチャイコフスキーと聞くと、

 字面だけではなんだか他人丼みたいな違和感があるが、なかなかどうして、

 これは数ある『悲愴』の録音の中でもトップクラスの名演である。

 カラヤン晩年のウィーン・フィルとの『悲愴』も素晴らしく肉声的で意味深い演奏であった

 けれども、

 このフルトヴェングラーの前では、幼稚園の学芸会と黒澤映画くらいの差がある。

 少し言葉が乱暴かもしれないが、それくらい「精神性」の差が歴然としているのである。



 更新が滞り、私の数少ない何人かの友達には心配をおかけしてしまったたようで、

 誠に申し訳ございませんでした。

 一日の睡眠時間がようやく4時間確保できるかできないかの生活をしていると、

 なかなかまとまった文章を書こうという気力体力(そして何よりも時間)の余裕がなかった

 もので。

 仕事のことはたくさん書きたいことはあるのです(それこそ毎日が「事件」の連続です)が、

 ずいぶんと機密性の高い部署に配属されてしまいましたので、

 なかなか仕事の愚痴すら書けない状態です。

 以前も書きましたが、今の私の仕事は「北方水滸」で例えるなら「李富」が毎日必死に

 「塩の道」を潰しているようなものです。

 小説では、梁山泊の軍資金のオオモトである「塩の道」とは、これを捕らえたかと思うと

 消え、潰せばさらに巧妙化し、こっちが本気になればなるほど抵抗力を増し決して消滅

 することのないものなのですが、私の仕事も、まさにそのような一種の「空しさ」が

 つきまとう性質のものです。

 犠牲だけが多く、勝利はありません。

 私は朝から晩までイライラしているし、直属の部下も疲れて果てています。

 先日などは(非常にお恥ずかしい話ですが)

 「わかんねぇだろうこれじゃあよう!いい加減にしろ!
  法律読んだのか!通達読んでるのか!内規は確認したのか!
  事実関係はどうなってる!なんでこないだの報告と違うんだ!説明になっていないだろ!
  これは煮て食うのか焼いて食うのか、それとも生で食わせるのか、どっちなんだ!
  決裁の趣旨をはっきりさせてからもってこい!」


 と大きな声を出して決裁の束を机に叩き突けてしまいました。

 深夜11時を回っていたし、私も疲れがピークに達していました。

 ※そのあとその部下には、
  「さっきは大きな声を出してすみませんでした。これからもよろしく頼みます。」
  とフォローは入れておきましたが、
  覆水盆に帰らず。
  一度出た言葉は引っ込めることはできないことはわかっております。

 以下は私が手帳に記したメモです。

 日付は、「5/20(火)、1:37」とあります。
 (上記の「事件」とは全然関係ない日のものです)

 「午前1時すぎに帰宅。
  いろんな小さなことが重なって
  いろんなことを思い出した。
  風呂から上がって
  すでに布団に休んでいる妻の寝顔を見る。
  ふと涙が出た。
  久しぶりの涙だった。
  うれしさとか、くやしさとか、
  情けなさとか、哀しさとか、
  実にいろんなものが入り混じった
  中途半端な涙だった。
  しばらく別室に篭って声を押し殺して泣いた。
  でも少しだけ
        すっきりした
              みたいだ。
                    たぶん。
  さて、明日のために睡眠をとらなければ・・・」 

 僕は今ここでいったい何をやっているのだろうか、と考える。

 私がここにいる意味があるのだろうかと。

 私がやっていることに意味があるのだろうかと。

 バベル。

 バベルの塔で天まで届こうと思い上がった人間に対する罰として、

 神は人間の言語を分かち、互いに理解できない存在とした。

 バベルの末裔たる僕たちは、本当に互いを理解し合えない存在のままなのだろうか。

 いや、きっとそんなことはないはずだ。

 生粋のゲルマン人たる指揮者フルトヴェングラーは、

 同性愛者であるロシア人作曲家チャイコフスキーの

 交響曲第6番『悲愴』を、

 まるで作曲家自身の肉声のように演奏し、

 僕たちはそれを感じとることができる。


 「私の悲しみなど、だれがわかるものか。」


 そんなことは言いたくないし、それは真実ではないことを願っている。

 





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Last updated  2008年07月06日 01時00分45秒
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