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テーマ:好きなクラシック(2316)
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でも、(不思議なことに)僕は「あらかじめ」2種類のCDを持っていた。 クーベリックと、小澤征爾。 小澤征爾は、「天吾」のシンフォニエッタであるが、 高く飛翔できずに(できるはずなのに!)小さくまとまり過ぎている感があり、どことなくもどかしい。 そういう意味においては、 「天吾のシンフォニエッタであるが」 ではなく 「天吾のシンフォニエッタであるがゆえに」と言うべきか。 「青豆さん」のシンフォニエッタである、セル&クリーヴランド管の録音は 僕は不幸にして所持していない。 現在HMVで取り寄せ中である(店頭で買うよりも安い。)。 「青豆さん」のセル盤を聴かずして「シンフォニエッタ」を論じるのはいささか心苦しくもあるが、 僕は、クーベリックのシンフォニエッタにとても惹かれる。 自然音としての不協和音がそのままに、野放図に放出され、 (妻は冒頭のファンファーレについて「何度聴いても物凄い音痴が歌っているようにしか聞こえない」と言う。) 青天のもとで愉悦するエネルギーが横溢しており、 動物的とも言えるほど、生臭い感情の陰影がある。 (外へ向かって走り出したかと思えば、突然立ち止まって内省的になる。) 各プレイヤーの名人芸は、メカニックなダイナミズムというよりは、むしろ野生的である。 なんという幸福な音楽! この音楽が存在すること、それだけで満たされたはずなのに、 これほどまでに愛される機会を得ようとは! お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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