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テーマ:好きなクラシック(2316)
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記憶では、午前7時30分から走り始めて、帰って来たのが9時前だったように思う。 やはり夏だ。朝といっても日が昇っていれば大量の汗をかく。 身体が熱を発し、乳酸が溜まり、水分を欲する。 喉から水分を入れると、喉が唸り、胃が吸収し、身体全体へ行き渡らせる。 生きている。 僕は確かに生きている。 生きているって、素晴らしい。 奇跡的でさえあると思う。 身体を動かすことは、そのような当たり前のことを、体験としてわからせてくれる。 僕は職業柄、人の死に立会い、ときには「死体」と一定期間付き合うことが少なくない。 件数としてはそんなに多くもないが、定期的な「仕事」のひとつである。 僕は医者でもなんでもない只の行政屋(コウムイン)なので、「それにかかわる」範囲は限られてはいる。 以下は、そのように限定された状態でしか「人の死」にかかわっていない僕の言葉である。 なにもわかっちゃい、感違いするな、と言われてもかまわない。 でも、誤解を恐れずに言う。 人が死ぬということは、肉体が物体となるということである。 柔軟であったはずの間接は硬直し、身体中のあらゆる液体は、その役割を失い、重力や張力により垂れ流されるだけの存在となる。 温度や湿度などの条件によって、色や臭気が変容していく。 肉体は、生命としての活動を止めたとき、ひとつの物体として、宇宙の法則に忠実に従うしかない。 死体には、これに抗う術がない。 彼は昨日、死体となった。 僕は今日も、生きている。 生きているってすばらしい。 ひとたびこの世に生命を授けられた以上、生きるべきだ。 悩むことも、痛がることも、苦しむことも、生きているからこそ、できることなのだ。 今朝、走りながらそんなことを考えた。 そのときi-Podで聴いていたのが、ライヒの『フォー・セクションズ』。 4楽章形式の交響曲のような作品。 それぞれの楽章が楽器群別に性格付けされていて、 第1楽章 ストリングス(弦) 第2楽章 パーカッション(打楽器) 第3楽章 ウィンド・ブラス(管楽器) 第4楽章 フル・オーケストラ といった具合。 とてもクールで、構成に非の打ち所がなく、含蓄が深い。 ライヒはいつもそうだ。 僕は「ドラミング」以来、ライヒのファンだ。 まさに「今」の音楽としての、リアリティーのある「ゲンダイオンガク」だと思う。 走り終えて帰宅した僕の滝のように流れる汗に対し、 「すごい汗ね。」 なにも朝っぱらからそんなに頑張らなくても、と言う妻に、 「生きてる証拠だよ。」 と僕は答えた。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2009年08月10日 00時08分07秒
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