子ども部屋のアミニズム
長らくご無沙汰しております。 ここんとこ仕事やら何やらで忙しくしております。 昨日は娘と一緒に映画『おおかみこどもの雨と雪』を見てきました。 思春期に差し掛かったけれどもまだ幼気なわが娘。 おおかみこどもの雨と雪が生まれるまでの過程も込みなので、どこまでわかるか実験でした。 前のめりで見入っていた娘の横で、母の私はいい年してボロボロ泣きまくっておりました。 おおかみおとこの彼と、両親を失った女子大生の花の出会いから子どもたちの誕生、子どもたちが思春期を迎えて自分の道を歩いていくまでの物語です。 ヲタの入らない人たちに受ける要素として、深層心理としての世界を刺激する何かがあるんだろうなぁとぼんやりと思ってました。 『となりのトトロ』『もののけ姫』『千と千尋の神隠し』『崖の上のポニョ』・・・土地の神々というべき存在との交流を描き、あの世とこの世を行き来する子どもたちの話、あるいは若者たちの話。 細田守さんの映画は始めて見たのですが、細かい描写にこだわった作品で花の生活のリアルさに胸元をぎゅっとつかまれてしまいました。 花と恋に落ちた彼は、名前はあるのですが明かされません。 獣と人の間を行き来する、おおかみおとこ。 おおかみと平仮名で表記してあるのがミソです。 オオカミは大神に通じ、獣と人とを行き来できるとなればある意味でカミに近い存在です。 半獣の彼は運送会社で働き、仕事の合間にもぐりで大学で講義を受け、花と出会います。 花はそんな彼を受け入れ、こどもを授かりますが突然彼を失います。 ヒトと違う乳飲み子を抱えて暮らすには都会は向いていない。 そう結論した花はこどもたちを連れて過疎の町へと引越します。 山際の里には気難しいけれどもやさしい老爺を初めとした人々が住み、花はその中でこどもたちを育てていきます。 元気でおおかみっぽかった上の姉、雪は学校に通い、ヒトに交わって暮らすうち人間として生きることを選びます。反対に甘えん坊で気の弱かった弟の雨は登校拒否を経て山に入り、ケモノたちと交わって暮らすうちにおおかみとして山に帰ることを選び取ります。 淡々と、本当に淡々と日々の暮らしがさりげなく積み重ねられていくことで濃やかにこどもたちの成長が描かれていくのが見事。リアルな暮らしの描写が嘘と本当の間をするっと取り払い、お隣にいそうな雪と雨の人生に子どもは深く共感し、親は花の立場から相方との出会いや子どもを授かるに至った経緯を思い出してほのぼのとした気持ちになれました。 その片側で、日本という国でいのちをつなぐことの魂の根っこの部分を見た気がしたのです。 町暮らしに慣れてしまっている身には遠いことですが、為政者が変わっても自然と隣り合わせた暮らしがこの国を支えていることは間違いなく、山という異界に暮らすケモノたちへの親しみや敬意や畏怖の念は薄れたように見えても、このような形でまざまざと自分の目の前に突きつけられるものなのだなぁと実感したのでした。 さて、私がここで思ったのは、子供向けのアニメーションや実写映画というのはその国の深層心理の原型が知らず知らずのうちに表現されてしまうのかな?ということ。 アニメーションというのは動かないものを動いているように見せる技術です。 その技術を使う折に、その国々の精神性が現れてきます。 長編アニメーションの元祖、ディズニーは魔法の世界を描きました。 「魔法」はヨーロッパの原始信仰の世界。(「奇跡」になるとキリスト教的ですが)。 『おさるのジョージ』は動物に疑してますが子ども自身を描いた作品。 英語圏ではどうも、成人するまで子どもは動物扱いのようです。 『マダガスカル』などアニメで動物たちが活躍する作品は、実は子どもたち自身が活躍することを意味するようなのでした。ユニコーンなどが登場する女の子向け作品は男の子にとって結構恥ずかしいらしいです。<『ペンギンズ』でその辺りの描写がありました。> ぬいぐるみコレクターも恥ずかしいらしい。(『アイ カーリー』) 日本でも人気の『きかんしゃトーマス』は、実写映画化するときの位置づけが丘の斜面の穴から登場していて、その描写は「妖精の国」を思わせます。言うなればトーマスたちは妖精扱い。妖精=子ども部屋のおとぎ話ということで、はっきりと大人の世界との線引きをしています。 それなのに日本で大人気なのは、幼い子ウケする丸い顔と彼らがもともと百年以上前から働いている保存鉄道の擬人化された機関車たちという部分が大きいのかもしれないと私は思うのでした。 一種の憑喪神です。類する作品に電車を擬人化した『チャギントン』や建設重機の擬人化『ボブとブーブーズ』もあるんですが、『トーマス』が他のキャラに水をあけている理由はその辺りにありそうだな・・・と。 翻って日本の場合。 日本らしさが一番現れているのはやっぱり『アンパンマン』。 命のもとである『食べ物』そのものにいのちが宿って動き出す、それも擬人化されてというところが八百万の神々がおわすわが国ならでは。自分の頭を(その人の飢餓を癒すために)他人に差し出したり、頭が汚れて力が出なくなったら、新しい頭で復活!というのは他の国には絶対ないヒーロー。自己犠牲と禊の世界。 一年単位で主役チームが変わる戦隊物やライダー、変身少女ものは、自然発生的な歳神さま。 人気によってそのヒーローの活躍が翌年も続くのもありだけれど、基本一年単位なのは子どもたちにとって彼らが年ごとにやってくる歳神さまに当たるからかもしれません。 おもちゃもその歳に授かる魂を意味する「お年玉」で買うことが多いし、こどもたちの祝い事での贈り物(祝福)にも使われますから。 戦隊ものが歳神さまなら、ご当地ヒーローは土地神さまだなぁと思うのは実際に各地の神話や伝説をベースにした作品が多いから。 そして仮面は万国共通、神や悪鬼やもろもろの不思議な存在に疑するための道具です。 特撮ヒーローのエポックメイキングとなった『ウルトラマン』の場合、デザインからして仏像が参考にされたのと、どうしてもあのスーツを見て連想するのは仏教の御練。 余談ですがまだ二十代のころ、マンガ好きのお茶会で奈良国立博物館に行った時にちょうど御練の装束を展示してあったのを見て、「あ、ヒーローショーの着ぐるみみたい」と言ったらその場にいた年長の方にたしなめられた経験があります。神仏とヒーローをごっちゃにするなんて不敬もいいとこ・・・と思われたのかもしれません。