いじめを見てみぬふりをする人たちは・・・
いったいどうやって作られているのか?岐阜の中2の女子生徒の自殺で彼女へのいじめのきっかけになったのが「いじめらている友達をかばったこと」だった、とは・・・それが5月から!続いていて、回りで聞いているほうがつらかったという友の声もあり、何とかならなかったのか?・・・という思いがどうしてもするのです。いじめの当事者は4人ということでした。それを知っていたのは何人くらいか知りませんが、4人と言えば例えばクラスとかでは少数派です。バスケット部員の中でも少数派ではないでしょうか。その4人の人たちがどんな恐ろしい存在だったのか?クラスが束になってかかっても歯が立たないような存在だったのでしょうか?庇えば彼女と同じ運命が待ち構えている、と皆が思うなんて・・・人間は一人ではないんです。一人で立ち向かおうなんてムリがあるとそこは思います。しかし、仲間というのはできないのでしょうか?いじめるという目的のためなら仲間はできるけど、例えば今の例で言うと4人。いじめに立ち向かうという目的のためには仲間は作れないのでしょうか?いじめていたという4人の中でも、ひょっとしたら、自分ひとりではやりたくないけど、いやいやいじめに加わっていた人もいるかもしれません。でも一人だけ抜けることはできない・・なぜならそれこそ他の3人にいじめの標的にされてしまう・・4人が4人ともそう考えていたという可能性だってあります。いじめを許さない、という強い主張をもっていなくても、いじめを見てみぬふりをすることはない、というなんとなく漂っていた空気はどこへいってしまったのでしょうか?昔はそんな空気があって、「いじめを注意したら自分がいじめの標的になる」という心配がなかったように思うのです。そんな子供同士の連帯感を何が奪い去ってしまったのでしょうか。今、学校間にももっと競争をということを言ってる偉い人がいますが、そんなことを言っていたらますます、子どもたちの間にひび割れを起こしそうなきがしてなりません。今ですら、修復の難しい亀裂が子どもたちの心に芽生えてしまっていないか、とっても気にかかっています。大事なのは人間同士のあったかいつながり、何が大切かといって、生きる喜びがみんなに感じられるような、助け合いが自然にできるような、そんな人間関係が築けること、ではありませんか?片方に頭でっかちの人間、片方に黙々と働く人間の大量生産?そんなの教育とは程遠い、と思えます。人は誰でも、あらゆる可能性を否定されずに成長することが喜ばしいと思うのですが・・・