自虐史観と誇り
「日本の国は誇れる国だ」といいたい人たちが好んで使う言葉。「自虐史観」ところがこれ程、自分の国を貶める言葉もないのでは?今日テレビをみていたら、『「自虐史観」という言葉を使う人は信じられない』という言葉を聞き、(法政大の田中優子教授?)まさにそうだと同感しました。この言葉には客観性、科学性が感じられません。誰から見ても、あーなるほど、と思えるような説得力がない。大の大人が大真面目にこの言葉を叫んでいるのを聞くと、まことに”誇り”高い姿には程遠い、ものを感じざるをえません。客観的な事実はどうだったのか?ということを知ること。「自虐史観」でものを考えること。この二つをわざと混同させることによって、事実と向き合うことを拒否できると考えているとしたら、それこそ恥ずかしいことではないでしょうか。。。誰が自虐的な歴史観を持ちたいものですか。そう名づけた人の品性を疑いたくなります。自分たちの品性のなさをさらけ出していることに気づかれない・・・本当に誇り高い見識の持ち主なら、事実は事実として認め、その上で、その反省の上にたって、事態をよい方向に(世界平和を構築する方向へ)どうしたら進むことができるか?を指し示すことができるのだと思います。自虐史観という恣意的なものさしで何か人を”ある方向へ引っ張っていこう”としているなら、それは人類共通の願いからはかけ離れていくであろうことを心配するものです。