「壁」と「卵」
村上春樹氏が「エルサレム賞」の受賞講演で述べられたという言葉。「高くて硬い壁と卵が衝突するような場合、自分は壁ではなく卵の側に立つ。たとえ壁が正しく卵がまちがっていても」と。この言葉を聞いたとき、人生で初めて自分が「壁」というものに遭遇したときのことを鮮明に思い出しました。それは大学に入った年。まだ学園紛争の名残が少しあった頃、学内でささいな衝突があったのかどうか、機動隊が大勢入ってきて、学生に向けてジュラルミンの盾を並べて無表情でまさに「壁」を形作っていたのでした!そのとき、機動隊の方々はお父さんの世代と言っていい年齢の方々に思え、こちらが何か話しかけたら答えてくれそうなものだと思ったのに、何を語りかけても無表情の状態を崩さない、まさに「壁」だったのです。このとき、壁は「国家そのもの」だと思いました。村上さんは壁は「システム」だとおっしゃったようですが、私がそのとき感じたのは、「ジュラルミンの向こうにいたのは、冷たい国家権力そのもの」だということでした。人間の言葉は通じない、学生が何人か集まって何か言っても歯牙にもかけない、厳然としてある力、絶対に正しい、何物をも寄せ付けない力それは「国家」!でもそうじゃない。間違いのない国家なんてない、何物をも寄せ付けないなんてことはありえない、と信じないと、お国のやることに逆らうなんてとんでもない、という時代にまたなってしまう、と恐れます。村上さんの言葉にとっても共感して学生時代の「おそれ」を思い出したのですが、でも一つ、違う点を見つけました。卵はいくつ集まっても壁には敵わないかもしれないが、人は団結することによって、壁より強くなれる、壁を壊すことができる!人にとってはもう必要のない壁人の共存にとって邪魔な壁を人の共同の力で壊しましょう!