宗教でも超えられないもの あるよね
一番上の姉と母との宗教の違いは二人にとって、たいした問題ではなかった、と思いました。母が亡くなり、その何時間か前に、母が姉を見た、その目が見たこともないくらい、澄んで、美しかった!と姉が教えてくれました。(私も見たかった!!)今日その姉から電話があり、久しぶりにまた新たな涙にくれましたが・・もう亡くなって一月以上がたっているのに、いや、まだ一月やそこらしかたっていない、とも言えるかな。。今日は実は 母の91回目の誕生日となるはずの日。それでやっと母のことを書く気になれました。10月入院した時から末期のガンであることは母以外は知らされていて。断固反対した弟妹が複数いて、姉は母に告知できなかったのでした。もう何も直る手だてのない状況ではとても言えない、とは上の兄の言葉です。母は生きたいという気持ちの強い人でしたから。(3番目の姉は看護師のくせに?何故か反対。下の兄は沈黙。姉は1対3と判断し、断念。2番目の姉と私は遠くで聞かれなかった)。今、告知の件ではかなり心の中で何度も反芻してしまうのですが、その時意見を聞かれていれば何と答えていたか、わかりません。今、意見を聞かれれば、断固教えるべきだった、となるでしょう。10月の時点でステント?という食道に通す管を入れていれば、1月のはじめに入院した時に何もものを食べられない、という状況にはならずにすんだと思うから。胃ガンが食道に転移して、11月の時には流動食しか食べられなかったとはいえ、まだ2割ほどは道があいていたのでした。私は流動食を作りに田舎に帰って、母と約一ヶ月暮らせたのでしたが、もし、母が自分の病気を「がん」と知っていたら、母との毎日が、違うものになっていたのではないか?毎日半狂乱になってものを探し回っていたり、認知症からくるのでしょうか、物を投げたり、大声で怒鳴ったり、私まで大声になってしまったり、とか・・・とにかく、しみじみ何かを話す、という雰囲気にはとてもなれなかったのでした。母にその気がないというより、その気にさせる緒がつかめなかった、のです。ステントの話は母はとんでもない、と断ったそうですが、もし、がんと知っていたら、食べられなくなる、と知っていたら、お願いしていたかもしれない、そう思えてなりません。2回目の入院では、一切ものを口から摂取できないため、何度も、断食はいつまで?と聞いていた、というのです。食べられないことのつらさは私には想像もできません。入院して丁度一ヶ月で母は逝きました。亡くなる一週間前(これはもちろん、後になってわかったことでした)になって、初めてガンである、と告げられて(告げたのは姉で、2番目の姉にどうしても告げてくれと頼まれ)、察していたよ、と言いつつも、その後なんとなく元気がなくなっていったように感じました。後になって思えば、ですが。始めに教えないのであれば、最後まで教えない、という道もあったのでは?と私などは思うのですが(もちろん、本当のことを知って良かったね、という気持ちもあります)、2番目の姉にとっては、本人に知らせずに看病を続けるのはつらくてつらくて、たまらなかったのだそうで・・・というのも、舅、姑、夫、と3人もガンで見送ったから、と。。姉妹3人で交替で病院に泊まり込みをしていたから、その疲れもあったと思います。老老介護?だし・・(私を除いて・・!。3番目の姉は現役で働いていたので、時々)。上の兄は今でも告知はすべきでない、といいますが・・自分の時の覚悟だけは出来たような気がします。私には絶対に告知してくれ、と。ただ、最後の一ヶ月は少しは泊まり込みができ、なでたりさすったりできたとしても、心の交流には、時間が足りなかったような・・お互いが、がんという言葉に向き合う、というか、現実を受け入れる、という境地に達するには、時間が短すぎた、という気がしてなりません。親孝行もできなかったし・・もっと早く告知できなかったし、母に済まない、と思う気持ちはずっと持ち続けるのかも・・・信心深くないし・・・