理想を追い求めたいものです
「理想を高く掲げ」とか「理想は高く」とか我が母校の高校の校歌には2カ所も「理想」が出てきます。多分、他の学校の校歌にもこの言葉数多く出てくるのでは?と推測しています・・子ども達には理想を高く持て、と求めるのに、大人達は理想を求めなくていいのでしょうか?理想は求めなければ理想のまま終わってしまうと思います。現実と違うから理想なのだ、理想は現実にはならないのだ、と物わかりのいい大人になっていないか?と自分に問うてみます。物わかりのいい、とは何でしょう?それは長いものに巻かれるというか、あえて世の中に起こっていることに異を唱えないでいる、というようなこと?こんなことを考えたのは、「それは理想だよ」と言下に否定されたことがあったから。自衛隊を海外に送らなくてもいいようにするために昨年の安保法は作られたのだ、というお考えの方に。軍事力の増強に頼らず、外交力によって戦争回避が可能なんて言おうものなら、「それは理想」と。それがもし本当に「理想」であるなら、理想に一歩でも近づこうとしないのであれば、何のために学校で理想を高く持て、と教えているのでしょう。小学校の校歌では、内外の国の隔てなく、きょうだいと同じように世界中の人びとと仲良くなんて言葉がありました。子どもの時に思う理想は大人になると形が変わるのでしょうか?宇宙に行った飛行士の方々は口々に地球はきれいな星国境は見えない争いは見えない争っている場合ではないと仰います。武器に費やされている分の財貨を全部食糧に回せたら、地球から飢えをなくすことができる、とも言われます。これも地球の現実。人類がその気になったら不可能ではない現実。人はいがみあっている場合ではないと切に思います。いがみ合いをなくすために必要なこと。それはもうけ社会を克服すること、だと思います。『里山資本主義』で言われているように少しずつお金の媒介する分野を少なくしていく。藻谷さんはそうは仰っていないですが。彼はほんの何パーセントかでいいとお考えのようですが、遠慮することはないので、それが100パーセントになれば誰も不当な利益を得ることも不当に差別されることもなくなり、助け合い、支え合いの社会が実現!とならないかと・・これはしかしまだ残念ながら夢想の域を出ていません。理想を唱えていれば理想が近づくわけでもなし。子どもみたいなことを書いています。(いつものことか♪)