「日本死ね」表現をあえて擁護する
『保育園落ちた日本死ね』というブログに対して表現が良くないという声を耳にするのでつい擁護したくなります。というのも、待機児童の問題は今に始まったことではないにもかかわらず、抜本的な解決にはほど遠い対策しか取られてこなかった、これは紛れもない事実です。何よりこれを物語っているのが、全産業における平均賃金が保育士のそれは月額11万円も低い、というところに表れていると思います。今回この「日本死ね」のインパクトが強かったからこそ、国会でも取り上げられたし、与党の方達にもこれは何とかしなければ、とやっと保育士さんたちの待遇改善が進みそうな話になっているのではないでしょうか?普通に保育園落ちた・・だけでは今までと何も変わらなかった可能性があると思います。国会で取り上げられることもなかったかも。。為政者は今までの延長上でお茶を濁して、はい、精一杯やってます、と言い張ることもありえたように思います。こんなに働く育児世代の親たちが困っているなんて、いや、困っているなんてもんじゃない、社会の損失にすらなっているなんて、想像できない方達のようでしたから。その理解力のなさにこれだけ怒りが集まるなんて、予想外だったのではないでしょうか。死ねなどという言葉は、特定の団体なり人間なりを貶めるため、あるいは傷つけるために言われるとき、責められるべきで、今回のように、こんなこともできないような国は国家としてどうか、というような意味の場合はヘイトスピーチとは全然違うものと思います。しかも街頭で大声でわめいているわけでもなし、激しいつぶやきになったとしても、読む方は内容を確認することが可能なわけだし。内容がひどければ無視すればいいし。結果的にこれが待機児童の問題解消につながることを大いに期待します。