テーマ:唐津街道(17)
カテゴリ:その他
タイトルを『出光先生奮闘記』に変更。11月中旬に日本中の書店にて販売!!! 出光先生、出光先生、出光先生、と呼ぶ声あり。
主な項目 『学校の日』(頁28) 佐藤慶太郎の銅像が若松に建つ(頁30) 出光佐三を”7人の侍”の木村功が好演(頁33) 常勤と非常勤の違い(頁45) 原子力の出光先生50歳(福高出身)(頁48) 若き実業家・岩下28歳(頁52) 完璧主義者・英語の尾崎先生(頁54) 遠賀信用金庫の音楽会(ぶどうの樹)(頁57) アパートの痴漢騒動(頁62)、 私の公開授業(頁63) 中村哲医師のアフガニスタン報告、合唱コンクール(頁65) 教育実習生23名(頁68) 県の学校視察(頁71) 公務員の仕事兼任の禁止(頁73) 墓地の草刈(頁77)、 70歳まで働こうなんて夢の夢。教員は『つぶし』が効かない!(頁80) 吉野ヶ里公園(頁83)、 トヨタ自動車工場(宮若市)(頁85) 赤間祇園祭、英検(頁87)、 パワハラ(頁89) 成績と掃除に相関関係なし(頁90)、 本校初の”ぶち切れ”(頁92) 熱中症で倒れる(頁94)、 中学生体験入学準備(頁96) ヨーロッパ家族旅行(頁102)、 アパート王・古河金吉(頁104) ALTのフーリン先生(頁109)、 体育祭(頁110) 校歌(頁113)、 筑紫丘高校と県教育委員会が反発(頁117) 電子辞書(頁120)、 中間考査の連絡(頁123) 娘が長崎から帰省(頁127)、ハイポーで一家団欒(頁128) 同期の出世頭の訃報(頁132)、 武蔵二天一流第11代目(頁133) 武山夫妻と太郎丸夫妻(頁136)、 お宮座(頁137) 小倉城での武蔵流派の練習(頁139)、 喫煙事件措置(頁141) 50歳で教員を辞めたとき(頁143)、 妹のケチ根性を兄が批判(頁144) 1年英語科のバトル(頁146)、 本校2度目の”ぶち切れ”(頁147) 司法書士と弁護士(頁148)、 ショパン演奏会に平野啓一郎(頁155) 中高一貫校へ発展(頁158)、 百人一首大会(頁163) 唐津街道を歩く(頁164)、 ICU(集中治療室)(頁167) ベストセラー作家・喜多川泰(頁170) 耐寒登山(頁171)178) 44年ぶりの卒業式、人生に勝ち組、負け組なんて有る筈もない(頁178) 同窓会会長・伊豆(頁181)、同窓会副会長・吉田(頁182) 本校のアイドル、八幡先生と青田先生(頁185) 3.11大震災ニュース(頁187) 教育の天才たち(頁192) 拍手と花束と寄せ書きを有難う(頁193) 3月31日職員会(頁198) 4月8日離任式(頁200) ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 書き出し部分 西暦2010年4月1日(木) 午前8時、私は母校・宗像高校の校長室横の応接室にいた。今年度の転任、新任教師の職員朝礼での紹介のための待合室であった。東筑高校からの転任教諭の小石先生は50歳。英語ペラペラで、東筑高校26年間勤務の大ベテラン。その隣は中間高校からの転任の数学の棟田先生。後で分かったことだが48歳、教務部長である。この先生とやがて女子硬式テニス部の顧問、副顧問のコンビを組む事になる。そして私と同じ身分、同じ教科の英語の常勤講師の前園先生。女性50歳。だから、英語科は3人も新人を迎えたわけです。4人の新人のうち、最年長は当年4月1日現在61歳の私だ。 応接室には歴代校長の写真が飾ってある。昔懐かし我らが世代の校長は第4代目。現校長の先代までが飾ってあった。私が卒業して早43年。まさか、県の教員採用試験も受けずに(受ける機会は年齢制限で全くなかったが)、卒業して43年ぶりに母校に教師として働こうとは夢想だにしなかった。人生、長生きしてみるもんだ。 終わりの部分 『アロハ、I was very happy to have a chance to work for Munakata High School, my alma mator. And I am very happy to be here to speak to you about myself. 実に、43年ぶりに母校に帰れて仕事ができて非常に嬉しかったです。人は、1冊は小説が書けると言います。何故なら、各人、各人、かけがえのない自分だけの人生を生きているからです。そこで、今日は私の人生について、ちょっぴりかいつまんで話したいと思います。大学を出て、とにかく海外に雄飛したかった、ビジネス界で社長になりたかった。社長には全く手が届きませんでしたが、海外には会社から行く事ができました。30歳で大学院に行って、34歳の時にここで教育実習をしました。そのとき、小倉の予備校で昼間教えて、夜は大学の夜間部の講師をして、日本大学の通信教育部学生として教育実習をしたのです。3枚の草鞋を履いていました。そういうわけで、私は全日制、定時制、通信制の3つを期せずして知ったわけです。全日制が教師と接する機会等を考えると一番恵まれています。是非、この恵まれた環境を大事に使って下さい。 私は2回、ユーターンしました。1回はサラリーマンをしていた大阪から。そして2回目は教員をしていた佐賀から。50歳で教師を頓挫したとき、司法書士に挑戦しました。世間では先生、先生と呼ばれるのは、教師だけではないことを身を持って体験しました。教師ってのは、生徒がいて成り立つ、すなわち、学校では先生だけど、地域に帰れば先生って呼ばれる人は、議員だったり、弁護士であったり、医者であったりです。教師を先生と呼んでくれるのは、生徒諸君だけです。どこでも先生と呼ばれるかって言うと、意外に通用しないものです。 妻と私と2人とも司法書士に挑戦、どちらも受験もせずに戦線離脱しました。1昨年、息子がその司法書士に合格して、飛びあがりました。私達夫婦と息子は同じ先生、プロ野球選手から司法書士になったという、元近鉄の投手・桧山泰浩から習った極めて珍しい例です。桧山投手は東筑高校から1985年にドラフト指名1位で近鉄に入団して結局、1軍では成績を残さないまま、6年でプロを辞めています。いかに世の中、狭いか、色んなところで色んな人と繋がっている。面白いものです。 この10年はほぼ毎年、アパートを建ててきました。私は教師とアパート経営と、そして小説家を目指しています。直木賞を取るのが夢です。君たちと競争です。君たちは最年少にチャレンジ、私は最高齢にチャレンジ。今から、競争です。 Thank you for listening. アロハ。』 言いたか放題だ。こういう機会は2度とない。宗像高校で生徒960名、そして教員55名を前にして喋る機会はもうないだろう。これだけ、言いたい放題、自分の宣伝をした人はいないだろう。公言したからには、直木賞を取らねばならない。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2011年11月07日 23時10分10秒
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