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須子はるかさんの日記を読みました。
体を売る女がいるなんて許せない、人を殺すなんて許せない、と人が言っているのを聞くことがあります。 私の友人には子供のころから敬虔なクリスチャンとして育てられて結婚まで処女を貫いてきた女性たちがたくさんいます。 そのうちの三人の人と意見を違わせたことがあります。 『体を売る女』についてです。 ボランティア活動をしていて中国人『難民』を訪問し終わった帰途中の車で私の友人が言いました。 「あんな危ない思いをしてまで何でドイツに来るのかしら。」 「国でつらいことがたくさんあるからじゃないの?」 「でも女性なのよ、犯されたりするじゃないの」 「犯されるつもりで来たわけじゃないじゃない」 「そんなの見当つくじゃない。結局お金なのよ」 「貧しい層の人たちはヨーロッパと違って、社会保険も何もないのよ。お金を稼げるチャンスがあると思ったから勇気を出して来たんだからそういう点は偉いじゃない。」 「貞操を売ってまでする?恐ろしいわ」 「でも彼女たちはクリスチャンじゃないのよ。自分のできることを必死にやったのよ。」 結局彼女とはまったく意見が合わず、気まずいムードになりました。 「許せない」と思う気持ちには「理解できない」という気持ちと「さげすむ」気持ちがまざっているように思えます。 わたし個人の場合、他の人がわたしと同じ弱さや卑劣さを持っているのを見たとき、その人が醜くみえてきます。 じぶんの弱さが本当に許せない、と しょっちゅう自分を責めているからです。 結局似たような弱さを持っている人を前にすると、自分の欠点を見せられているような気持ちになっていらいらするのです。 人を愛したり許したりする前にわたしは自分の弱さや欠点も『大目に』見てあげれるようにならないとだめかな、と思っています。 ただ、悪いことを『許せない』と思う人間の自然な良心や正義感を麻痺させることがないようにもしなくてはいけないと思ってもいます。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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