カテゴリ:情報的生活行為
『中古』愚か者—畸篇小説集 多くの短編の中から、「ぬけがら」より。 p82 5行目より 以下引用→ その晩、北川氏はこんな話をした。ーーー僕の親父は鳥取県の寒村の生れで、 東京へ出てきて、学校を出たあと会社員になって、世田ヶ谷区の祖師ヶ谷に家 を買いました。それが昭和30年代のはじめ、高度経済成長がはじまったころ です。そのころにはもう姉と私は生まれていました。あとに弟が一人生れました。 その三人の子をそれぞれ学校を出し、嫁にやり、会社員と教員にしました。会 社員になったのが、僕です。家の窓べに花を飾ったり、部屋の壁や便所の中に 絵を架けたり、つまり「便所」を「トイレ」と言い抜ける、そういう都市近郊 の生活です。併しこんな生活は、はじめからぬけがらです。何の目標も根拠も ありません。親父は、家を買った時の借金を返して行くだけのその日その日で す。返し終わると、癌で亡くなりました。僕ら子供たちもそれぜれ、たまたまで す。学校を選ぶのも、嫁に行くのも、会社勤めをするのも、その場その時のた またまです。無根拠性の中を漂っているだけです。ふとその場その時の出来心 で盗みをしてきたようなものです。それがたまたまばれなかっただけのこと です。 ーースーパーマーケットへ行くと、魚や肉を売っているじゃないですか。僕 はある時まで、海には魚の切り身が泳いでいると思っていたんです。肉を買っ て来て、晩飯のおかずにする。だけど世の中には「お肉」なんてものはないん ですよ。あれは牛の屍体なんですよ。牛の屍体を「お肉」と言いくるめて、平 気でいるのが僕らの生活だった。何か耐えがたいほど居心地のいい、うその生 活ですよね。ところが、そういう生活に平気でいる人は、牛をさばく人に感謝 するどころか、逆に白い目でみたりします。 引用以上。p83終りから3行目まで。 (文中ルビは省いている。ただよう、と言う語の漢字はサンズイに羊の下に水。) もう少しで読んでしまう。(予定) お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2024年08月26日 06時04分24秒
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