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ユダヤが解ると真実が見えてくる

ユダヤが解ると真実が見えてくる

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2012年04月23日
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カテゴリ:ユダヤ史
↓(注)以下、ユダヤ擁護の視点で解釈された史観だが藪蛇になっている



ティツァ・エズラ
1882年、ハンガリーのティツァ・エズラという村で、キリスト教徒の少女エステル・ソリモシが行方不明になった。すると当地の反ユダヤ主義の議員たちの扇動によって血の中傷が焚き付けられ、すぐさま地域のユダヤ人が告発された。

法廷に立たされたユダヤ人は15人に上ったが、その中には屠殺人のシェロモー・シェヴァイツも含まれていた。このときは裁判所も教会も事件にあまり関心を示さなかったが、続いて公務員ヨセフ・シャープの2人の子供が誘拐され、教会の近くで監禁されるという事件が発生した。すると、この両事件によっていわば洗脳状態に陥った住民たちから、あたかもエステルの殺害現場を目撃したかのような証言が相次いだ。そのほとんどが、シナゴーグの中でシュヴァイツがエステルの喉を引き裂く様子をドアの鍵穴を通して見た、というものであった。マウリッツ・シャープという名のユダヤ人の若者は、傷口から滴り落ちる血をどのようにしてシュヴァイツが器の中に注ぎ込んでいたのかといった細部にまで言及している。また、犯人はシュヴァイツだけでなく、告発された残りの14人の他、自分の父親も事件に関与しており、彼らはエステルが暴れないよう押さえつけていたと証言した。さらには教会関係者の指示通り、地域のユダヤ人有力者の姿も現場で目撃したと供述した。シュヴァイツが抗弁の際、人間の首を切断した場合、傷口からは猛烈な勢いで血は噴出するので、一方の手で首を切断し、もう片方の手で血を受け止めるのは不可能であると主張したときは、これらの疑問に抵触しないよう証言し直している。

事件を担当した弁護士、兼作家のカーロイ・エトベスは現場検証のために複数の裁判官をシナゴーグへ派遣したが、現場からは若者の供述を裏付けるものは何も出てこなかった。それどころか、シナゴーグのドアには鍵穴さえもなかったのである。

この裁判は反ユダヤ主義者による暴動を惹き起こし、ついにはパラシュブルク(現ブラチスラバ)をはじめとした各都市でポグロムが発生するに至った。ハンガリー政府は戒厳令を敷くと共にユダヤ人居住区のある地域に軍隊を派遣した。首相ティサ・カールマーンは要職者に対して、公権力の立場にいる限りは決して無実のユダヤ人に危害を加えることを許してはならないと警告した。

後日、ティサ川からエステルの遺体が引き上げられたが、その遺体に暴力が加えられた痕跡がないのは明白であった。ところが、彼女の母親は教会からの圧力を受けて、その遺体が自分の娘であることを否定したのである。また、遺体を引き上げた漁師たちは当局によって拷問を受け、公判の際、その遺体がユダヤ人によって引き渡された別人のものであると証言した。それによると、ユダヤ人が地域の病院から密かに遺体を搬出し、行方不明時にエステルが着ていた衣服を着せてから漁師たちに引き渡したというのである。つまり、ユダヤ人の依頼に従ってその遺体を川に投げ捨て、数日後に自分たちで引き上げたという自作自演説を主張したのである。とはいえ、遺体が消失したという記録はどこの病院にも残されていなかった。

遺体はブダペストに搬送され、政府が派遣した病理学者の手で解剖されたが、調査の結果、エステルが死亡時に妊娠していたことが判明した。おそらく、愛人の子を妊娠したものの、その相手に逃げられてしまい、将来を悲観した挙句に入水自殺したものと見られている。エトベスの熱心な弁護により、告発されたユダヤ人全員の無実を訴える抗告がなされたが、ブダペスト高裁において棄却された。

エトベスはこの事件の詳細を記録し、全3巻の書籍にまとめて発表した。また、彼が下院議員でハンガリー民主党の党首だった時には、ユダヤ人の権利を守るために彼の承認の下、自発的に訴訟費が支払われている。その後、彼は政党から除籍され、議員資格も剥奪された。そして各方面からの迫害に耐えながら不遇な生涯を送った。しかし今日のハンガリーでは、彼は国民的な英雄として尊敬されている。

一方、偽証したマウリッツ・シャープは事件後にオランダに移住したが、そこでユダヤ教の信仰を取り戻し、事件に関する自伝的書物を発表した。アルノルト・ツヴァイクは1918年、戯曲"Ritualmord in Ungarn"(ハンガリーの人柱)を補完するため、マウリッツの自伝を基にして小説「サマエルの使命」を執筆している。

ポルナー
1899年、チェコのポルナーにて、19歳の少女アネズカ・フルゾワが殺害された。この事件は過越祭の期間中に起きたため、すぐさまユダヤ人の知的障害児レオポルド・ヒルズナーが告訴された。しかし彼を犯人と断定する証拠にはいくつもの問題があった。

ヒルズナーの裁判には政治的、かつ反ユダヤ的な思惑が絡んでいることは明らかであった。そのため、トマーシュ・マサリクがヒルズナーを救うべく仲裁に乗り出したが、力添えにはなれなかった。ヒルズナーには死刑が宣告されたものの、彼の支援者が皇帝フランツ・ヨーゼフ1世に圧力をかけたため、終身刑に減刑された。その17年後の1918年、皇帝カール1世によって恩赦が出されている。

ケルキラ島
19世紀末、ギリシアのケルキラ島にはおよそ5000人のユダヤ人が定住していた。彼らの共同体はイタリア出身者とギリシア本土出身者に分かれていたが、共に経済的に成功しており、キリスト教徒とも表面上は友好的な関係を築いていた。ところが1891年、ユダヤ人の家の中庭にあった袋の中から首を切断された少女の遺体が発見されたことにより、潜在的に秘められていた反ユダヤ感情が爆発した。殺された少女はユダヤ人の仕立て屋の娘であった。しかしキリスト教徒は、その遺体が仕立て屋に養子に出されていたキリスト教徒の娘のものだと主張して譲らなかった。このため、腹に据えかねた多くの住民がユダヤ人を裁くために大通りに集まる騒ぎに発展した。そこで、ラビの訴えもあって地元の司教が仲裁に当たったところ、かろうじてポグロムの発生を食い止めることができた。ただし、この事件によってユダヤ人の多くが同島での生活を諦めざるを得ず、富裕層を中心におよそ3000人がイタリアのトリエステやエジプトのアレクサンドリアといった他国のユダヤ人居住区に移住した。

キエフ
1911年、ウクライナのキエフにて、儀式のために少年を殺害した嫌疑でメナヘム・メンデル・ベイリースが告訴された。この裁判は帝政ロシアの末期という時勢もあって、リベラル派と保守派との政争にも利用された。ベイリーズの支援には大勢の学生が参加し、彼に有利な世論を形成した。裁判が続けられた2年間、彼は拘置所での生活を余儀なくされたが、最終的には陪審員による無罪判決を勝ち取っている。

ナチス・ドイツ
ヨーロッパにおける血の中傷を再燃させたのは、ナチス・ドイツであった。それはアドルフ・ヒトラーの著書『我が闘争』の記述において如実に見て取れる。第三帝国期には実際に血の中傷絡みの訴訟が起こされている。

キエルツェ
1946年、ポーランドのキエルツェにて、ユダヤ人が儀式のためにキリスト教徒の子供の血を利用しているという噂が広がり、ポグロムを惹き起こした。

事の発端は、2日間の行方不明の末に発見された9歳の少年が、地元警察での事情聴取の際、ユダヤ人の議会施設に監禁されていたと供述したことにあった。彼はそこでユダヤ人がキリスト教徒の子供を殺害するのを目撃したという。そこで警察は、狂信的なユダヤ人が過越のパンに混ぜる血を採取する目的で殺害したと推理し、捜査のために当該の施設に向かった。すると、噂を聞いて激怒した地元民たちが暴徒と化して警察の後を追って来た。

当時現場に居合わせた目撃者によれば、暴徒らはユダヤ人が所有する武器が押収されるのを見ると、家屋に向かって投石を始めたが、やがては警察官や軍人までもがその行為に加わり、ついにはポグロムへと発展してしまったという。この騒動によって約200名いたユダヤ人住民のうち、42名が命を落とし、80名もの負傷者が出たが、彼らは皆、ホロコーストの生き残りであった。また、暴徒からも2名の死者が出ている。

ソビエト政府とポーランドの右派は、このポグロムにはユダヤ人と暴徒の双方に責任があるとして告訴した。暴徒から数名が法廷に立たされたが、警察官や軍人は含まれていなかった。

それから60年を経た2006年の追悼式典にて、ポーランド政府はこの事件に関して公式に謝罪し、「キエルツェでの悲劇はユダヤ人だけでなく、ポーランド人に対しても耐え難い屈辱を与えた」と述べている。

アラブ世界
20世紀になると血の中傷はアラブ世界にまで浸透したが、その背景には中東戦争があった。例えばエジプトではユダヤ人の人身御供の習慣に関する書物が多数出回っていた。また、第2次インティファーダの期間、同国のテレビでは、パレスティナ問題に絡んで血の中傷を煽り立てる番組が盛んに放送されており、中にはアリエル・シャロンがアラブ人の子供の血を飲んだと訴える番組もあった。

堪りかねたムバラク大統領は急進的なテレビ番組を非難する声明を発表したが、彼はその声明において「すべてのユダヤ人がそのようなことを行っているのではない」という旨の発言を行っている。これはすなわち、一部のユダヤ人は血を飲んでいると公式に述べたも同然であった。

またエジプトと同様、第二次レバノン紛争時にはヒズボラも独自のテレビ網を通じて、血の中傷を視聴者に吹き込んでいた。

その他の代表的な中傷
ホスチアの中傷
ユダヤ人は血の中傷だけでなく、それ以外の様々な中傷にも耐えてきたが、その一つに、ユダヤ人がキリスト教のミサで用いられるホスチア(薄焼きのパン)を冒涜するというものがある。ホスチアはキリスト教徒によってイエスの体(聖体)の象徴と見なされており、敬虔なキリスト教徒は、ホスチアを刺すとそこから血が滴り出るという話を信じている。

1290年、パリに住むユダヤ人夫妻に関する中傷が広まった。それによると、この夫妻がとある教会の秘密の部屋で、床が血で溢れかえるまでホスチアを刺していたというのである。異端審問にかけられた2人は火刑に処せられている。同様の事件は1556年にポーランドのソハシェブでも起きており、3人のユダヤ人に死刑が宣告されている。

1298年の夏、ドイツでもホスチアにまつわる中傷から惨劇が起きている。フランケン地方のレッティゲン(R?ttingen)という町のあるユダヤ人の家屋から赤子の泣き声が聞こえたが、これがホスチアの呻き声として噂されたのである。すると「リントフライシュ王」K?nig Rintfleisch(※ドイツ語で「牛肉」を意味するRindfleischとは異なる)と名乗る騎士(屠殺人という説もある)は、 “天から、聖体に対する冒涜の容疑でユダヤ人を絶滅させる使命を受けた” と宣言した。彼の指揮の下に煽動された群衆が暴徒と化し、4月20日レッティゲン在住のユダヤ人56名を惨殺した。群集はその勢いのまま各地を巡行し、フランケン地方の2大中心都市ヴュルツブルク(7月24日)、ニュルンベルク(8月1日)ほか、バイエルン地方、シュヴァーベン地方などで146もの町を破壊した。今日では、この一連の暴動によって、およそ2万人ものユダヤ人が虐殺されたと見積もられている。(de:Rintfleisch-Pogrom)





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最終更新日  2012年04月27日 06時46分10秒
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