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カテゴリ:アセンション
近頃は、すっかりと春めいてきた網地島です。 でも、風の強い日が多く例年には無い寒暖差の多い3月。 でも、梅の蕾もほころび始め、 朝の氷点下は少なくなってきています。 早朝ジョギングには、道路の凍結がね~。 ツルッと、滑って転んだ事もあります。 春になると、予約もチラホラ。 シーズンに突入してしまう~~! (これ、忙しくなる嘆きと、出会いの喜びとで複雑な心境!) 満月の夜に、夜桜ならぬ夜梅を楽しみました -----*****-----*****-----*****----- 前回は、アフリカ等の難民の方たちに対する 愛の表現について深い所で考えてみました。 今回は、もっと身近な例を挙げてみようかな。 それは事故や事件に遭うという出来事。 事故や事件は、加害者的存在と被害者的存在が織りなす 調和を取り戻す出来事と言えるかもしれません。 ここで的と言う文字をつけておりますが、 これは基本的に加害者はいないし被害者もいないのが、この宇宙の実相です。 3次元社会ではそう見えるような表現なので、あえて的という文字をつけました。 現象面だけを切り取ってみてしまうと、 加害者に非難が浴びせられ、被害者には同情が寄せられる。 やはり、どちらもその学びを選んで、大いなる存在の計らいで、 今生の出来事としてそうなっているのだと思います。 深い、過去世からの因縁が絡む事だから、 人智の及ぶ範囲を超えた出来事だと思われます。 数百年、数千年、或いはそれ以上にわたっての因縁なのですから。 それぞれのハイヤーセルフ、守護霊団を 巻き込んでの絶対調和に戻す為の出来事です。 そう考えると、悲惨な事故事件も、「ひどい!」と嘆くだけでなく、 何か別の見方も出来ると思います。 そういう人達に対する“愛”は、どんな愛の表現なのか。 そういう因縁からの開放が仕組まれた愛、 またそれを見守るだけの愛は、 創造主の愛なのではないでしょうか。 慰めの言葉をかけて、励まして上げるのも、それも“愛”。 この世には、覚醒した魂もあれば、 まだまだいろいろな学びを経験しなくてはならない未成熟の魂もあるのも事実。 そういう根源的な事象までも包括した物が、統合意識というものなのでしょう。 マスコミで賑わっているいろんな事件。 加害者とされる立場も、被害者とされる立場も、 その場面では悲劇に映るドラマでさえキチッと帳尻の合った、 過去の不調和を調和に戻す統合意識としての愛なのでしょう。 三次元という制限の多い世界では、 これを理解出来る人は少ないかもしれませんね。 もっと身近な例、病気になった、 職を失った、試験に落ちた、望んだ生き方が出来ない・・・ こういう事も、絶対調和に戻す為の営みなのでしょう。 こういう『大変な目』にあっている人に、どういう愛を表現できるかという事。 宇宙の大いなる愛、創造主としての愛を、 例え頭だけの理解だけであっても少し知ってくると、 むやみな同情や慰めは、あまり意味をなさない事に気付きます。 しかし、統合意識の愛を知った上で、 苦しんでいる人を光で包んでやりたいという 湧き上がる思いも尊重したいと思う。 上(高次元的という意味)から下を観て、 「その苦しみは、あなたの選択ですよ。」 「調和に戻す為の、大いなる計らいなのですよ。」 と言うのは、相手の意識レベルを確認しないといけません。 “糠に釘”になるような段階の人に、 それを説いても理解は得られませんからね。 ただ、冷たい人と映るだけですね。 現状の一般の人々のレベルは、 決して目覚めている人が多いとは言えませんからね。 それも、勿論無理からぬ事。 でも、今年の後半位からはスイッチが入る人がどんどん増える事でしょう。 ゲリーの言う“愛する愛”レベルの表現で 相手を包み込むのが適切なのでしょう。 『人を見て法を説け』とは、お釈迦様の言葉。 その人に合った法(真理、ダルマ)の説き方が必要なのですね。 では、一般的な人々の“愛する愛”を表現するとはどういう事か。 やはり、苦しんでいる人を前にして、 少しでも楽になって欲しいと欲し、 今自分で出来る事をする事なのでしょう。 ただ相手の話を聞いて「ふんふん」と頷き、 「大変だったね」と慰めることも、大切なのでしょう。 一時凌ぎにしかならない言葉であっても、 その時は気持ちを楽にしてくれるものだったりします。 結局は、問題解決は本人がどう捉えるかですから。 相手の辛い気持を慰め、徐々に、 自分で解決しなくてはどうにもならないことを諭し、 最後はこの事が意味あることなのだという事を話し、 問題を受け入れる勇気を与える事が、 “愛する愛”から統合意識の愛の表現になるのかな。 あくまでも、本人の選択ですからね。 マザー・テレサですら、神の存在すら疑った事があると、 後に発見された手記に書いてあったそうな。 現象面のただその一面を切り取ってみれば、 あまりにも残酷と思えるような一面も、 統合意識には表現されるのでしょう。 結局は、他人の生き方に介入する事は一切出来ないという事。 全てが、本人の選択です。 しかし、結果として影響を与えたという事はあるのでしょう。 「あの一言が、私を大きく変えるきっかけになった。」 とか言われるように。 その、自分を変えるきっかけになった一言って、 決して優しい慰めの言葉ではありません。 統合意識にそった、厳し過ぎると思えるような 強烈なカウンターパンチのような 言葉であったろうと思います。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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