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カテゴリ:人生観
メールはこちらから ようこそ、お越し下さました。 毎朝、暗い時間にやる写経、 ついに3月1日に89枚を書き上げました。 でも、まだ四国に行ける タイミングには至っておりません。 まだ、機が熟していないのでしょうね。 地理的物理的な「四国」と、 遍路では「お四国」と言って 区別されています。 「お四国」は、 いわば浄土に近づく 道標になり得る所。 だから、四国八十八か所を ただ地理的に回っただけであれば、 本当のお遍路ではないと言われています。 スタンプラリーの如く、 ただ行った事だけでは 意味は薄いという。 「お四国」に出会わないと、 本来のお遍路さんには なれないのかな。 やはり、「何をしたか」より 「何を感じたか」 が大切なんだろうな。 お遍路を何十回もやったような方もいますが、 そういう方の貴重なお話を伺ってみると、 「お遍路にご利益があるとすれば、 どれほど感謝の気持ちになれたかによる。」 というようなお話がほとんどのようです。 「生かされていることへの深い感謝」 に尽きるのでしょうね。 日頃の日常で、 その「深い感謝」の念が いつでも沸々と湧き起こるような方は、 言い換えてみれば 「解脱に至った」状態ですよね。 お四国に行かなくとも、 特別な修行をしなくとも、 幸せの中で生きることが できると思います。 こんな言葉に出くわしました。 「赦しとは、 踏みにじられた スミレの花が 自分を踏みにじった 踵(かかと)に放つ 芳香である。 【マーク・トウェーン】 「赦し」・・・唸ってしまいます。 スミレの花を、 気付かずに踏んでしまった・・・ ということを「踏みにじった」 と書いていますが、 言いたいことは解りますね。 右のホホを打つなら、左のホホを・・・ (マタイによる福音書) を更に深く実践しているかのようですね。 本当の「赦し」とは、 ここまで「許す」ことなのでしょうね。 「生かされていることへの深い感謝」を、 いつでも実践できる人は、 ここまで「許せる」のかもしれませんね。 私なんかは、到底どこにも及びません。 深い感謝の念をいつも抱いていられたら、 文句や愚痴なんて言うはずありませんね。 他人のどんな考えや生き方も、 「どうぞ自由に好きな生き方をしてください」 と認め受け入れられます。 それについて、批判や裁きもあろうはずありません。 私の理想としているところです。 こういう生き方をされている人が 世界のどこかにいるのではないかと信じます。 だから、少しでもそれに 近づく努力はしたいですね。 端折って言っちまえば、 「解脱への道」は、 そこにあるのでしょうね。 私が、お四国に行きたいのも、 そこを再確認したいがための旅です。 千年を超える流れの中で、 遍路道のそこ彼処にちりばめられた 珠玉の「愛」、そして「感謝」。 それを感じる旅をしたいな。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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