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カテゴリ:人生観
メールはこちらから ようこそ、お越し下さました。 今や世界中が注目している? ロンドンオリンピック。 我が家のTVにも、映っている時間が増えています。 ペンションをやるようになってから、 夏のオリンピックを見られるのは初めて。 今までは、ペンションの ハイシーズン中でしたからね。 でも、今年はのんびりと カウチに引っくり返って オリンピックを楽しんでいる 家族を見ていると、 「これもいいか~」なんて気持ちかな。 勝負の世界には、いろいろなドラマが誕生します。 金メダル候補だったのが、 その力を発揮することができずに無念の涙。 方や、下馬評にも上がっていない選手が、 表彰台に上がったりと。 私が30代後半の数年間、 ある車のレースで日本一を 目指していたこともあったけな。 母子家庭状態の中、 何とか子供たちに父親としての 足跡を感じてほしかったから。 (これも、大きな勘違いのエゴとこじつけ) 実際、その栄誉に輝いたことも、 記憶の隅っこにあります。 若い時の、人と競って生きた日々。 今思えば懐かしい。 勝負は、時の運とも言われます。 しかし、運も実力の内ではあります。 「勝負は背負っているものの多い者が負ける」 と言われます。 背負う荷物が多ければ多いほど、重くなる。 体が思うように動かなくなる。 身も心も「自由」がなくなる。 生き方もこれと一緒かな。 「我」も重い荷物の一つです。 「負けるが勝ち」 「不生不滅、不垢不浄、不増不減」 「ふしょうふーめつ、ふーくーふーじょう・・・」 実は、「勝つ」とか「負ける」とかも 無いのが宇宙の真理。 ゴールをどこに設定するのかがその分かれ目。 目先の勝ち負けか、 あるいは今生の生の最終章に基準を置くか。 更には、3次元の肉体を脱いだ後、 次の生をどこにその表現の場を求めるか。 そこで、どういう結果になろうとも、 そこには「勝った」とか「負けた」とかの 定義付けはありません。 その中で、何を学んだかが成長の糧。 人それぞれの美学が問われます。 すでに、勝つとか負けるとかは 死語となった私です。 勿論、生の中で「勝ち」に生きる 若い時の経験は貴重です。 「勝ち」に拘って生き、 その囚われを手放し、 人は徐々にその熟成度を 高めていく。 そして、「勝つ」ことに拘ることの 虚しさを知るのでしょう。 競うことの愚かさを 識(し)るのでしょうか。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2012.08.04 06:58:19
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